寛永3年の歴史感じる陸軍いれいとう。
神明神社の特徴
創立は寛永3年(1626年)と歴史ある神社です。
散歩の途中に立ち寄るのにぴったりな場所です。
陸軍のいれいとうがあり、独特の文化があります。
散歩の途中に寄らさせてもらいました。以前に寄った時は境内で祭り囃子のお稽古中で、一風変わった感じのお囃子でしたが、子供達が皆頑張っていました。昭和30~40年頃の高度成長期によく見られるモルタル作りのお宮ですが、それでも実に趣のある雰囲気で、地域からの崇敬がよく分かる気持ちのよい空間でした。こちらは旧馬入村の鎮守で、戦前には現在の八千代町の消防第五分団のある旧東海道沿いに建っていたとのことで、鳥居横に植えられていた大銀杏が地域のシンボルになっていたそうです。社も銀杏も空襲により全焼しましたが、銀杏の根元からはひこばえが生え、戦後復興に勤しむ住民と共に復活を遂げようとしていましたが、道路拡張工事で泣く泣く撤去されてしまったとのことです。境内にはその大銀杏の枝の一部が大切に保存されています。
せひいってください、陸軍のいれいとうがあります、
初詣に訪れました。お汁粉が振る舞われチョッぴりホットな一時でした。
初詣に訪れました。お汁粉が振る舞われチョッぴりホットな一時でした。
名前が、好き。
名前 |
神明神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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創立は寛永3年(1626年)4月と言われている。このあたりは、1601年~1609年に松の植林が徳川幕府によって行われて、「馬入松原」とよばれるほど、風光明媚な名所であったと云われている。今は住宅に囲まれて当時を知ることが出来ないが、安藤広重の「東海道53次・平塚」(1833年頃)は「馬入松原」であろうといわれているので、当時の様子を見てとることが出来る。この神社は「馬入松原」の北側にあり、別当は修験蓮光寺であった。蓮光寺は明治5年の修験道廃止令により廃寺になったとおもわれる。今は存在しない。此の地で、関東大震災、太平洋戦争などにあい、全壊、焼失した歴史を持つが、今も変わらずこの地に存在する。______________❸【参考 神奈川県神社誌 1981年】寛永3年4月(1626年)創立と伝えられる。昔は神明宮と称した。拝殿内の狛犬一対は前境内地馬入蔵邸(くらやしき)、入口の樹齢300年に及ぶ公孫樹(いちょう)の古損木(こそんぼく)を用いて彫刻されたものである。末社第六天社も新編相模風土記に載っている歴史の古い御社である。[沿革]寛永3年4月(1626)創立明治6年(1873年)7月村社に列せられ、神明社と称した。大正12年(1923年)9月関東大震災に全壊し直ちに復興した。昭和20年(1945年)7月16日太平洋戦争により焼失昭和21年(1946年)5月 仮社殿を建築竣工する。昭和40年(1965年)6月現在地に移転した。昭和44年(1969年)2月神明神社と改めた。5月現在地に鉄筋コンクリートの御造営完工、[鎮座地] 平塚氏馬入字中堂13の3[祭神] 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)[例祭日] 4月10日[境内神社] 第六天社[境内地面積] 260坪______________❷【参考 新平塚風土記 1970年】むかしは東海道の名物の松林がつづいていて、「馬入松原」とよばれていた。徳川幕府が1601年~1609年までに植え付けたものであると云われる。安藤広重の「東海道53次・平塚」(1833年頃)とあるが、明らかに馬入松原の風景であろうといわれているので、当時の馬入を知る手段となりえる。尚、松原の北に神明社があり(この社)、別当は修験大光院(現在廃寺)であった。今は住宅が立ち並び、当時の風景の欠片を見出すこともできない。________________第六天社は今は神明社の境内末社であるが、江戸の頃は神明社とおなじで、末社でなく、1社として祀られていた。❶【参考 新編相模風土記稿 1830年】〇神明社蓮光寺持[鎮座地] 馬入村〇第六天社村持ち[鎮座地] 馬入村。