福岡藩士、貝原益軒の歴史を感じる。
貝原益軒の墓の特徴
福岡藩士の貝原益軒を偲ぶ史跡として訪れる価値がある場所です。
貝原益軒は日本の学者として名高く、知識の源泉がここにあります。
貝原寛斎の五男でもある彼の業績を深く理解できる特別な場所です。
日本の学者として忘れてはいけない貝原益軒が福岡藩士であることを私は迂闊にも忘れていた。森鴎外の「小倉日記」に記されている鴎外の史跡巡りで思い出した。Wikipediaによると貝原 益軒(1630年12月17日- 1714年10月5日)は、江戸時代の本草学者、儒学者。読書家となり博識となった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に判るように書かれている。70歳で役を退き著述業に専念。
貝原益軒筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。1648年(慶安元年)、18歳で福岡藩に仕えたが、1650年(慶安3年)、2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。1656年(明暦2年)27歳、3代藩主・光之に許され、藩医として帰藩[1]。翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。7年間の留学の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂する。『大和本草』(国立科学博物館の展示)幼少のころに虚弱であったことから、読書家となり博識となった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に判るように書かれている。70歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に60部270余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『大和俗訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』。紀行文には『和州巡覧記』がある。『大和俗訓』の序に「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」とみえるように、庶民や女子及び幼児などを対象にした幅広い層向けの教育書を著した。思想書としては、1712年(正徳2年)の『自娯集』。学問の功は思にありとして、教義・道徳・教育等の意見を著した『慎思録』、朱子学への観念的疑問等を著した『大擬録』などがある。1714年(正徳4年)に没するに臨み、辞世の漢詩2首と倭歌「越し方は一夜(ひとよ)ばかりの心地して 八十(やそじ)あまりの夢をみしかな」を残している。東軒夫人福岡の秋月藩出身の貝原東軒は16歳の時に貝原益軒と結婚した。そのとき貝原益軒は39歳。名前は江崎初で、字(あざな)は得生。貝原東軒は類稀な才女であり、和歌に巧みであり、楷書も巧みで、京都では能筆家として認められるほどの達筆であった。貝原益軒との共作の掛け軸も残っていて、有名なものは貝原東軒が「敬愛」と楷書で大書きし、これに貝原益軒が細書きで解説を記したもので、夫婦の仲が良いことが伝わってくる作品として知られる。また、夫婦で筝・胡琴の合奏も楽しんだという。20歳以上も年の離れた妻を愛した貝原益軒は、62歳と69歳のときに京都に妻の東軒を同行させた。当時は婦人と一緒の旅は珍しく、愛妻家振りが知れ渡った。日本各地を夫婦で視察して、貝原益軒の巡遊記に達筆で補筆した妻であった。妻の東軒は62歳で他界するが、40年以上も仲良く連れ添った妻を亡くした益軒は心身ともに疲労し、来客を断って引きこもりとなった。貝原益軒は、妻の死から8ヵ月後、妻の後を追うように85年の生涯を終えた。貝原益軒の偉業を陰で支えた妻シーボルトから「東洋のアリストテレス」と称され、「養生訓」をはじめとする膨大な著書を残した偉大な学者であった貝原益軒。だが、当時としては驚くべき年齢の85歳まで生きていろいろな学問を広く世間に広めながら書物にしていったのは才女である妻の東軒がいたからこそ。自分の娘でもおかしくない20歳以上も年の離れた妻をこよなく愛した郷土が誇る偉人金龍寺は、曹洞宗で山号を耕雲山という。永正5年(1508)怡土郡高祖村(前原市)に高祖城主原田弘種が創建。慶長16年(1611)に福岡藩士高橋伊豆により城下荒戸山に移転。二代藩主黒田忠之の時現在地に移転した。 寺内には福岡藩の儒学者貝原益軒と東軒夫人の墓がある。 大正7年、病気静養のため来福した倉田百三は、当寺に寓居し『愛と認識との出発』『俊寛』を構想執筆し、また武者小路実篤の「新らしき村」に共鳴してその支部を置いた。
名前 |
貝原益軒の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
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福岡藩の偉人。養生訓が有名ですが、本業は本草学者(植物学者)というのは初めて聞きました。