対馬の歴史、金石城の魅力。
金石城 櫓門の特徴
対馬藩主宗家の居城である金石城の復元櫓門が見事です。
厳原町の中心地に位置し、博物館前でアクセスが良好です。
移築された風変わりな構造の櫓門が存在感を放っています。
今後場内の整備を進めていくのだろうか。正面から見た時は、その向こうに何があるのかと期待。
対馬藩主宗家の居城で復元された楼門が見事です。周辺にはたくさんの石垣塀の家屋が点在しています。
わざわざここに来なくてもいいかもしれないけど、厳原の中心地にあるし、博物館の目の前でアクセスがいいので、ついでに少し寄れると良いのかもしれません。
■金石城(かねいしじょう)は、長崎県対馬市厳原町にあった城です。江戸時代などの火災によって焼失しましたが、文化14年に二重櫓門が再建されていましたが、老朽化により大正8年に解体されていました。■二重の櫓門は、平成2年に、合併以前にあった厳原町が「平成の城下町づくり事業」として、再建したものです。城跡は、国の史跡に指定されており、城内で発掘調査された庭園は国の名勝に指定されました。■築園は、まだ道半ばといった趣ですが、春の桜や四季折々の花々が美しく、もっと市民に親しまれてよいと思いますが、人影が少なく、平日の昼間に訪ねると少し寂しいくらいです。■近くにある対馬市役所(以前の厳原町役場)がすっかり老朽化しており、景観維持の観点から、建て替えに際しても、金石城の風情を損なうことがないよう配慮をお願いしたいものです。
対馬市役所横の対馬博物館のふもとにぽつんとある楼門。お城は現存していない。
宗氏の居城であった金石城の櫓だが、櫓にしては独特の構造。ポツンとひとつだけ建っている。平成2年に復元されたというので、これから城址復元が進むのではないか。
金石城(かねいしじょう)は、長崎県対馬市厳原町にあった城で、市街を挟んで北東隣の桟原城(さじきばらじょう)とあわせて厳原城(いずはらじょう)ともいう。天守は築かれず1669年(寛文9年)に宗義真によって造られた大手口の櫓門を天守の代用としてましたが、現在の櫓門は大火などで消失したものを復元したものである。
金石城の櫓門と言うか、櫓門しかありません。他に城の遺構らしきものは簡素な庭園があるだけです。城址としてはかなりお粗末な部類です。ただ、隣接する萬松院の宗家廟所は圧巻の見ごたえですので、あわせてご訪問ください。なお、櫓門の先は公園になっていて、その一隅には宗武志と李徳恵の結婚を記念する石碑があります。武志は旧対馬藩主の家柄で、徳恵は高宗(大韓帝国初代皇帝)が側室に産ませた娘です。なお、徳恵が生まれたのは日韓併合の二年後ですから、元皇帝陛下は随分と厚遇されています。ハワイのリリウオカラニ女王が聞けば、びっくり仰天してキラウエア火山に転がり落ちそうです。徳恵は少女の頃から統合失調症を患っていましたが、武志は徳恵を深く愛し、献身的に看病しました。徳恵は日本の敗戦後も日本で暮らしていましたが、徳恵の自称婚約者の兄である韓国人の新聞記者が騒ぎを起こして、旧朝鮮王族の帰国を画策しました。その結果、婚姻関係は破綻して徳恵は帰国、病気の回復をみないまま韓国で亡くなりました。なお、その自称婚約者はちゃっかり他の女と結婚して子供も二人いるので、何がなんだかという感じです。徳恵の生涯は史実性皆無なウリナラファンタジー小説となり、小説に輪をかけて荒唐無稽な映画にもなりました。当然ながら悪役は日本人と親日派(チンイルパ)です。史実の自称婚約者は親日派の係累なのですが、細かいことを気にしていては韓流コンテンツは楽しめません。石碑の横にある石板には、成婚から離婚に至る経緯が簡素かつ当たり障りのない範囲で日韓両国語によって刻まれています。まあ、仮に韓国人がそれを読んだとしても、映画と違うから歴史歪曲だと怒るだけかもしれませんが。
2020 11月、工事中でした。
名前 |
金石城 櫓門 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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国境の島、対馬に立派な城があるのだと再認識しました。石垣がいたるところに残されています。