弘前城の絶景で心和む旅を。
弘前城 本丸跡の特徴
弘前城は層塔型3重3階の天守が魅力的です。
紅葉のシーズンに訪れると色鮮やかな景色が楽しめます。
落ち着いた雰囲気で、広くて綺麗な庭園も見どころです。
お城は🏯紅葉が始まりますね🍁
改装中でした!でも美しい〜
お城の天守閣に登ったのははじめて。オリジナルは焼け落ちて1800年代の復刻らしいですが、景色はよかった。
2021.4有料ゾーンにありますが、ここは追加料金なし。急な階段を御年寄も登ってました。
思っていたよりも正直小さいお城でビックリでした。お城の中も階段を上がって3階まで昇れます。弘前城に行くならやはり桜の咲くシーズンでしょう。
本丸唯一の現存建築である天守は層塔型3重3階の建物である。現在は独立式であるが、往時は北側に多聞櫓を付属させた複合式であった。この多聞櫓は明治29年(1896年)ごろまでに破却されている。天守の高さは約14.4メートルあり、現存する三重天守の中で最も低い。1627年(寛永4年)大爆発して焼失した5重天守の代用として、またロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられた。1810年(文化7年)着工、1811年(文化8年)に竣工した。往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたが、「事実上の天守」としての役割を持ち現在は書籍などの多くで天守として扱われている。昭和24年(1949年)に松前城天守が焼失したため、現在最も北に位置する現存天守でもある。外壁は白漆喰塗籠で、窓と狭間の上下に長押形を施し、また屋根瓦には寒冷地のため銅瓦を葺いている。外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻出窓を設け、窓には狭間窓を用いるなど小さな建物を華美で大きく見せる視覚効果が施される。一方で、内側である西面と北面には破風を全く付けずに連子窓を単調に並べただけである。いわゆる「二方正面」である。内部も通常の天守建築では最高級の木材や技術が用いられるが、弘前城の場合は普通の櫓と同等の木材が用いられ、構造的にも簡素であり、床も全て敷居を設けず畳を敷くことが想定されていないなど、当初から倉庫として利用されることを見込んだ構造となっている。平成の天守石垣の修理において明治・大正時代の壺の発見や天守台石垣の四隅からイカの形をした石垣が発掘された。イカの形をした石は市が「いかすみ石」と名付けた。最初の天守は、鷹岡藩2代藩主の津軽信枚により1609年(慶長14年)頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物である。内部6階と推定される建築は東北地方では若松城天守に次ぐものであった。しかし1627年(寛永4年)9月の落雷で出火し、天守内部に収納されていた火薬に引火して(4重目に吊るされていた釣鐘が落下して下層に収納してあった火薬に引火したとも)大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した。天守は再建されることなく、今でも天守台を支えていた石垣は本丸南西隅に聳えている。なおこの天守火災は当時、藩主・信枚の伯母(初代津軽為信の正室・阿保良の姉)の祟りだと信じられていた。伯母は為信のために、横内城城主で南部氏一族の夫・堤弾正左衛門から離縁され失意の内に病没しており、城はそれから30年ほども経ってから完成しているのだが時折、伯母の怨霊が城内に現れていたという。
弘前城(ひろさきじょう)は、陸奥国鼻和郡(のち統合と外浜(青森)、西浜(十三湊)を編入で津軽郡)弘前(現・青森県弘前市下白銀町)にあった日本の城である。別名・鷹岡城、高岡城。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。
桜の時期とは全く違いますが、広くて綺麗です。スタッフの対応も良いですよ。
弘前城の絶景スポットのひとつです。高台である、本丸からは岩木山がよく見えます。本丸中心部に天守閣が引っ越し中、今しか見ることのない景色が見れます。本丸から西側に岩木山が見え、岩木山と天守閣の写真は今しか撮れないと思いますよ。弘前公園内の各所の写真を投稿してます、見てください。なお、ここは有料区域なので、注意しましょう。
名前 |
弘前城 本丸跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0172-33-8739 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.3 |
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兼六園程凝ってはないですが、城門や庭園の新緑・岩木山の眺望など素晴らしかったです。本丸内部は現代建築資材で補強されてるので、多少再建天守寄り。最上階も外廊下がないので眺望は望めません。記念メダル機あり。