保元の乱の歴史を 感じる特別な場所。
重仁親王御廟の特徴
保元の乱に関連した歴史的な史跡である。
崇徳上皇の御子息をお祀りしている重要な場所です。
王子の重仁親王が滞在した地として知られています。
保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐に配流と成ります。崇徳上皇の第一皇子の重仁親王は乱の後、仁和寺の華蔵院に入り剃髪し出家「空性」と称します。そして寛暁大僧正のもとで仏道に励みますが足の病により応保ニ年(1162年)に享年23歳で逝去されたと云われています。ただ親王がどこで亡くなったかについては定かでなく長野県川上村には親王が落ち延びて隠棲したと云う伝承があり親王が祀られる御霊宮が残っています。また、讃岐に残る伝承は重仁親王は父、崇徳院が配流されてから三年後の平治年間に密かに行脚僧の姿となり父君である崇徳院の讃岐の配所を尋ねてこられた云います。しかし父君と一緒に暮らすことは到底叶わず重仁親王は綾高遠により密かに鼓岡御陵から東の方向にある檀紙村の薬王寺へ送られます。そして親王は寺僧と共に起居し応保ニ年一月に亡くなられたと云われています。檀紙村に有った薬王寺は江戸時代初め万治年間に初代高松松平家藩主頼重公により高松五番町に移転され、今もその境内には五輪五塔の重仁親王墓が有ります。また檀紙町の薬王寺跡には今も「重仁親王廟」が残され地元の人々により守られています。その廟は崇徳上皇が葬られています白峰御陵に向かって建てられています。
この場所はかつて、崇徳上皇が讃岐の坂出に流されてきた時に,王子の重仁親王がしばらく、この地に滞つていた所です。この地は弘法大師が眼病を治すために創建したところです。薬師寺と言います。目の寺でもう一寺、阿波の薬王大寺があります。その後,重仁親王はこの地の人々の弁財天として崇めらています。この薬師寺はかつては、広大な敷地がありましたが、今は僅かな敷地の寺院という感じです。この寺の霊を松平頼重公が宮脇町の薬師寺に分霊しました。
| 名前 |
重仁親王御廟 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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崇徳上皇の御子息様をお祀り致しております保元の乱の為。