岩槻城跡の静かな憩い。
寿能城跡の特徴
平日の昼間は静かな雰囲気で、憩いの場として最適です。
岩槻城の出城跡として歴史を感じる名所です。
大正年間に文化財として指定された落ち着いた公園です。
ただの綺麗な公園です、石碑はありました。大宮スタジアムの駐車場が利用可能。
平日の昼間は静かな雰囲気。史跡めぐりのかたがたまにいらっしゃいます。まわりがよく見渡せます。公園になっているので、学校から子供たちが帰る時間になると、子供たちで賑わい、みんなに愛されている公園です。
岩槻城の出城として、太田資正の子である潮田出羽守資忠の居城跡とのこと。いまは公園になっているのだが、当時の縄張り跡なのか、小高く盛土された丘になっている。
なんとなくお城があったのかな〜?って感じ。もう少し説明があるとよかったのだが。
彼女との思い出の場所❤️ 夏は朝まで話込んだ‼️
案内板は有るが宅地開発で縄張り把握は難しい。
公園で遺構ありませんが、説明板や石碑があります。
大正年間に文化財として史跡に指定されたようだ。そして、小高い丘にはカキツバタが綺麗に咲き、かつての城中庭園の名残と言われていた。しかし、太平洋戦争に際して高射砲陣地として切り開かれてしまい、遺構として外観を完全に失ったという。現在の形は、戦後に再整備されたもので、当時の姿とイコールなのかは分からない。が、そもそも、寿能城は1560~1590までしか存在せず、江戸時代には単なる土手(または丘地)になっていた点からしても、戦前の様相もしっかりとした城跡感はなかったものと思われる。(『新編武蔵風土記稿』等)。『大宮市史』の記述によれば、城域は東西870m、南北440mほどあったとのこと。県営大宮公園の東北の方にある岬状の台地に築かれた平山城で、西は北中学校、南は割烹旅館「東山」の辺りまで延びていたそうだ。『寿能城と戦国時代の大宮(p18)』によれば、この公園は当時の物見櫓跡に当たるという。そして、背面を見沼に守らせていたものと思われるため、大手門は、現在の北中学校の辺りにあったものと推定されている様である。さらに、当時は「寿能の浮き城」と呼ばれていたらしく、その外観はまるで見沼に浮いている様だったと伝わる。このため、かつては「寿能城は中州にあった城」と考えられていた。しかし、地層等を調べた結果、中洲が存在したものとは考えられず、これは否定されたという。現地の墓石の後ろには碑文が刻まれていた。台座の後ろには、昭和年間に補修した旨が刻まれている。また、正面には太田氏家紋であるキキョウが浮き彫りにされていた。太田資忠が「潮田出羽守資忠」を名乗っているのは、母親が潮田常陸介の妹であったためとされる。
落ち着いた公園です。
名前 |
寿能城跡 |
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ジャンル |
|
電話番号 |
048-829-1723 |
住所 |
〒330-0805 埼玉県さいたま市大宮区寿能町2丁目167−16 |
HP |
http://www.city.saitama.jp/004/005/006/001/005/015/001/p000202.html |
評価 |
3.1 |
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城趾というよりは 近隣の方の憩いの場所の公園という感じがしました。住宅街で駐車場もありませんので車で出掛けるのには向かないと思いました。