穴場の鉄道撮影、芋坂児童遊園。
台東区立芋坂児童遊園の特徴
日暮里駅から陸橋を渡ってすぐの穴場公園です。
やるには最高な公園として最適な場所です。
鉄道撮影に最適な、落差が気になる遊具があります。
電車が頻繁に真横を通るが子どもの目線だとほとんど見えない。
ながらスマホやるには最高の公園。
電車がみえるけど、盆地になっているので子供には少ししか見えません。静かだけどなんとなく寂しい感じですね。
元不良住宅地区(昭和七年調査)
初めて鉄道撮影を目的に訪れました。
日暮里駅から陸橋を渡ってすぐの所にある、穴場的公園。夜は電車を眺めながらゆっくりできる、なかなかドラマチックな公園です。陸橋の下の線路も沢山あって、都会の景色を堪能できます。
落差が気になります。
いくつか遊具がある公園です。芋坂跨線橋下の線路脇にあります。
人気が全くない穴場。広い。自転車の練習などにいい。隣を電車が走っています。日陰は橋の下があります。遊具はすべり台、ブランコ、砂場。
| 名前 |
台東区立芋坂児童遊園 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
03-5246-1321 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.taito.lg.jp/kenchiku/hanamidori/koen/index.html |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
芋坂児童遊園のある場所は、数奇な運命を辿ってきたところとして知られています。この地は江戸時代から谷中の高台(谷中霊園側)と根岸の下町(羽二重団子側)を一本で結んでいた「芋坂」という有名な坂道でした。明治15年(1882年)、当時の日本鉄道株式会社による現在のJRの線路(東北本線など)が敷設されたことで、芋坂は完全に線路で分断されてしまいました。分断された坂を繋ぐために「芋坂跨線橋」が架けられましたが、この線路沿い一帯には鉄道用の土地(国鉄の用地)が確保されることになりました。現在の芋坂児童遊園は、この鉄道用地の記憶を受け継ぐ場所に位置しています。土地の所有権はそのまま国鉄(現在のJR東日本)に残り続けました。そのため、この公園は台東区が所有しているのではなく、現在もJR東日本から台東区が土地を借り受けて運営しているという歴史的経緯を持っています。そして芋坂児童遊園の歴史を語る上で、京成本線の地下トンネル「東臺門(とうだいもん)トンネル」との物理的な接続エピソードは、太平洋戦争戦時下の緊迫した状況を伝える最も劇的な部分です。昭和20年(1945年)春、本土空襲が本格化する中で、国家(運輸省)は国鉄の重要な「皇室用客車(御召列車)」や、重要物資・車両を爆撃から守るため、上野の山(上野台地)を貫く京成電鉄の地下トンネルを国鉄車両のための巨大な防空壕(疎開シェルター)として接収することを決定しました。このトンネルの入口が、今も現役の日暮里駅から上野の山へと入る陸橋のすぐ先にある、本多貞次郎(京成創立者)揮毫の扁額が掲げられた「東臺門(とうだいもん)トンネル」です。しかし問題は、国鉄(省線)のレール幅が1,067mm(狭軌)で、京成電鉄のレール幅は1,372mm(当時の馬車軌条 / 後に1,435mmの標準軌へ変更)であったことです。線路の幅が全く違うため、そのままでは国鉄の列車を京成のトンネルに乗り入れさせることは不可能でした。そこで運輸省の命令により、昭和20年(1945年)6月に京成の上野公園(現・京成上野)〜日暮里間の運行を完全にストップさせ、京成の線路を国鉄用の1,067mmの線路に全域を敷き直すという戦時下ならではの「力技」の突貫工事が行われました。国鉄の線路から東臺門トンネルへ車両を運び込むための連絡線の終着地点・分岐点が、ここ「芋坂児童遊園」の敷地でした。JR鶯谷駅と駅の西側、寛永寺の墓地との間にある細長い土地は、その連絡線の廃線跡で芋坂児童遊園まで伸びていた名残です。国鉄の在来線(山手線や東北本線など)は低い位置を走っていますが、京成の東臺門トンネルはそれよりも高い位置にありました。そのため、現在の谷中霊園の崖沿いに緩やかなスロープ(傾斜地)を造成して連絡線を通し、その坂を登りきった頂点、ここ芋坂児童遊園の敷地に「ポイント(分岐器)」が設けられました。ポイントで進路を整えた国鉄車両は、御隠殿(ごいんでん)坂橋の近くで京成の下り線へと合流しました。この接続の際、京成のガード(架道橋)から下ってくる線路と連絡線を滑らかに繋ぐため、周辺の土地を切り下げて路盤を低くする工事まで行われました。そして、車両の搬入は毎晩、国鉄の終電が走った後の深夜に行われました。田端機関区から借りてきたC11形やC12形といった小型のタンク式蒸気機関車が使用され、客車を前方に配置して、機関車が後ろから押す「推進運転(バックでの押し込み)」で連絡線へと侵入していきました。戦後、トンネルは京成電鉄に返還され、昭和21年(1946年)にトンネル入り口から一番近い、寛永寺坂駅も営業を再開しましたが、寛永寺坂駅は昭和28年(1953年)に廃駅となるも駅舎は取り壊されず、平成28年(2016年)に解体されるまで63年間、当時の姿のまま残っていました。今はコンビニになっていますが、それまで、「国旗掲揚台」の土台(石碑)や駅舎そのものが「倉庫」として残っていました。次の駅、博物館動物園駅は駅舎がリニューアルされ、現在は定期的に一般公開イベントや現代アートの展覧会会場として活用されています。京成電鉄の快速やスカイライナーで京成上野〜日暮里間を移動すると、地下の暗闇の中に一瞬、天井が高くなり、古いコンクリートの壁や階段の跡がライトに照らされて通り過ぎていきます。そこが、かつて芋坂児童遊園のポイントから国鉄の蒸気機関車に押されて避難してきた、皇室客車や重要な列車たちが避難していた場所です。2つの駅の明暗は分かれましたが、トンネル全体が東京の街と鉄道を守り抜いた巨大な戦跡として、今も現役で機能しています。