八丈島で宇喜多秀家のロマンを体感!
宇喜多秀家の墓の特徴
豊臣政権下の歴史を持つ、宇喜多秀家の墓所です。
八丈島での悠久のロマンを感じながらお参りできます。
関ヶ原での敗退後に流された歴史的な背景があります。
宇喜多秀家(羽柴備前中納言秀家)の墓です。今年の3月にはここまで来ていたのですが、慌てて違う墓標を撮影しまいました。気づいてビックリですよ。今回はそのリベンジです。気合いを入れてマップを睨みながら歩きます。しかし一回目は公道まで出てしまいOB。二回目も………そして三回目、墓標ばかりでなく周囲の塀•垣根まで注意して歩くとありました。「宇喜田秀家墓」の標柱です。いやあ、やれやれでした。ここで外すと今度はいつ来れるか分かりませんからね。で、中納言のお墓は墓地の一番奥にあります。その周囲を二回り程小さい墓標が複数取り囲んでいました。墓標に刻まれた文字は風化してほとんど読めません。御家来衆でしょうか、それとも御系類でしょうか。ふと気がつくと線香の香りが………..墓前にお線香が供えられていたのです。ちなみに宇喜田家は八丈島では浮田家を名乗りました。このお墓の隣には浮田家のお墓があります。もしかしたら、このお線香はそういう事なのかもしれません。2025.6.28
2024年8月7日に墓参しました。豊臣秀吉の五大老であった宇喜多秀家ですが、慶長5年1600年の関ヶ原の戦いに敗れ、慶長11年1606年に配流となりました。妻の豪姫(前田利家の四女で秀吉の養女)とは、生き別れとなり、34歳でこの地に流されました。生涯赦免されることはなく、明暦元年1655年に83歳で没しています。最初に建てられた墓石は、正面向かって左側の位牌形のものです。向かって右側の大きな墓石は、子孫の方々が、天保12年1841年に新しくしたものとのことでした。周囲のお墓は、一族や家臣の方々のものだそうです。菩提寺の宗福寺が、何度か移転しているため、現在の寺所と墓所が離れています。
八丈島最初の流人であった秀家公は丁重に祀られているのですね。
八丈島へ行ったら、ちょっと歴史に触れてみよう🎵
豊臣政権下における五大老の一人、宇喜田秀家の墓所です。宇喜田秀家は関が原で西軍の主力として戦いましたが、友軍の寝返り、お家騒動による戦力低下などにより、あえなく敗軍の将となりました。関が原合戦後は島津家にかくまわれましたが、追及が厳しくなり、徳川家に身を委ねました。徳川家は宇喜田秀家を島流しとし八丈島に閉じ込めるという処分を下しました。八丈島に流されたのは、秀家34歳の時、その後83歳で没するまで八丈島で暮らしました。八丈島の生活は中央で公達として青春時代を送った秀家にとって快適ではなかったと思います。しかし前田家(奥方が前田の姫)の取りなしによる恩赦も断り、この地で子孫繁栄をしたので、それはそれでよい余生だったのかもしれません。また秀家の後も罪を犯した人が続々と島流しにされ土着したそうです。このお墓はもともとあった場所から移設されたようで、遺骨も埋葬されているのか不明ですが、とても歴史の悲哀とロマンを感じさせてくれます。
悠久のロマンを感じます。
慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いでは西軍に投じて敗れたため,薩摩に逃れ,島津氏のもとに隠れていたが,島津忠恒の命乞いによって死を免れ,駿河久能に放たれ,同 11年4月には八丈島に流された。島にあること約 50年,配所で没した。
八丈島近世配流1号の宇喜多秀家史跡を巡ってきました。空港から結構歩きました。島内移動はタクシー、レンタカーが主流なようです。街中のウオーキングで民家の間を抜けて行きます。Googleの手助けが無いと不便です。道々の看板に上がっているお名前は宇喜多家関係者もおられますが、戦国時代に関東管領上杉氏の代官として派遣された家臣の子孫の方が多いとのこと。近くの宇喜多秀家居宅跡とあわせて巡る方がいいでしょう。
大雨で風も強かったがどうしても訪れたかったのでお参りした。浮田や、喜多など関係する家系のお墓もある。歴史を感じさせる場所であった。
| 名前 |
宇喜多秀家の墓 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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墓がいっぱいあって分かりづらいですが、標識の一番奥にあります。近くに民家があるので路上駐車は止めてください。