新しい滑り台が待つ多賀谷城跡。
多賀谷城(下妻城)跡の特徴
新しい滑り台で親子連れが楽しめる遊び場です
平和の記念碑が立つ歴史ある多賀谷(下妻)城跡です。
階段や様々な滑り台があり、挑戦できる遊びの場です‼️
大宝城跡から多賀谷城跡へ来た。車で10分以内で着く。車は多賀谷城跡公園駐車場へ停めた。土曜日だったので混んでいたが、まだ2~3台のスペースが空いていた。平日なら全く問題ないだろう。多賀谷城(旧名下妻城)の遺構は、現在全く残っていないが、昭和30年代までは曲輪、堀、土塁などが良く残っていたらしい。今は公園内(本丸跡)に、明治二十三年に建立した多賀谷氏遺跡碑や近年設置した説明板などがあるのみである。私の住む行田市の忍城もそうであるが、当時の状況から止むを得ないとはいえ、誠に淋しいことである。下妻城は、多賀谷氏家(下妻城主初代)が鎌倉公方(後の古河公方)足利成氏から常州河内郡(常陸国関荘三十三郷)を与えられ、最初関舘(関城)に入ったが、後に下妻に築城を開始し、寛正二(1461)年に落成とある。その後多賀谷氏は下妻城を拠点として主家結城家をも凌ぐ20万石まで拡大したが、七代城主重経[しげつね]は、天正十(1590)年の小田原の役では秀吉側に付いて所領を安堵されたが、慶長五(1600)年の関ヶ原の合戦では、家康の再三の出陣要請に応じず、家康の小山本陣へ夜襲をかけようとしたことが露見し、改易追放となり流浪の末死去した。因みに、重経の長男三経[みつつね]は結城秀康の家臣となり関ヶ原を戦い、秀康の越前移封に従った。また、重経の養子宣家(佐竹義重四男)は兄佐竹義宣に従い出羽へ移った。尚、多賀谷氏の起源は武蔵七党の野与[のよ]党にあり、平安時代末期、道智頼基の子光本[みつもと]が武蔵国多賀谷郷(現在の埼玉県加須市)の地頭職に就いたことに始まる。現在残る地名は“田ヶ谷”だが、そこにある大福寺が多賀谷氏館跡と云われ、近くには多賀谷神社がある。《2023.10.21訪問》
駐車場はゆとりあると思うが、整地されて跡形がない?
遺構は本丸跡くらい。後は土塁くらいでしょうか。公園の西側に出ると公園が明らかに高いので、元は堀だったようです。元々は湿地に浮かんだ城だったようですが、市街地化により殆ど遺構が残ってないようです。
昔からあったロケットの滑り台や山の滑り台が無くなったのが悲しかったけど、新しい滑り台で楽しく遊ばせられました🎵階段があったり色んな所から乗って、高さの違う滑り台で色々挑戦してました‼️
トイレが綺麗でした。清掃係の方ありがとうございます。水もあり子連れには助かります。駐車場が狭いので気をつけて下さい。
平和の記念碑があります。勉強になりましたよ。
公園です❗良く親子連れ見ますよ✨
遺構らしいものは、碑が建っている一段高くなっている場所だけ👆堀も土塁も残っていません😞ただ、多賀谷城跡公園の名前だけが城のあった手がかりでしょう☺
結城氏の有力家臣、多賀谷氏の城跡。下妻城跡とも。現在は駅からアクセスの良い公園になっていて遺構はほぼ無い。
| 名前 |
多賀谷城(下妻城)跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.1 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
2019/5/6沼に浮かぶ水城だったようだが、沼は埋められ、宅地開発により遺構は見つけられない。