源頼朝公ゆかりの神明神社。
神明神社の特徴
後藤義光の孫が手がけた宮彫りが見られます。
本殿の欄間には立派な鯛の彫刻があります。
台風による改築中で新たな姿に期待大です。
竜島の神明神社は、祭神は大日霊貴命(オオヒルメムチノミコト)、つまり太陽の神・天照大神(アマテラスオオミカミ)です。創立は不詳ですが、古くは神明社と言い、緑深い神明の森の中にありました。治承四年(一一八〇)八月二十九日、戦いに敗れた源頼朝が、海路、真鶴から安房国に逃れ、ここ竜島に上陸した時、わずかな味方と共に、この神明社に落ち着いたとされます。頼朝は、ここで北条時政、義時、三浦義澄、和田義盛らと再起の道をさぐり、 外房の一大勢力、上総介広常のもとへ向かうため、ここから長狭へ出発し、後に鎌倉幕府を開きました。いわば、この地は頼朝の再起の出発点と言えます。頼朝は竜島で、さまざまな伝説を残しています。竜島の村人にたいへんお世話になった頼朝は、お礼に姓を与えたと言います。ひれの立派な魚を献上した者には「鰭崎」。新鮮な貝を献上した者には「生貝」。柴でお茶を立ててくれた者に「柴本」。家に松が茂っていた者は「松山」。菊の花を飾った部屋に休ませてくれた者に「菊間」。他に「中山」「久保田」。これを竜島の七姓と言います。神明社の神主は代々、左右加氏が努めました。もともと松山氏ですが、頼朝のもとに味方の兵が左右から多く加わってくれるよう祈願してくれたお礼に、頼朝が「左右加」という姓を与えたとも伝わります。左右加屋敷は神明社の隣にありました。その隣の松山家の庭には、頼朝がのどをうるおし、玉のようにうまい水だとほめた「玉の井」があります。今、水は枯れていますが、この地区の字「玉の井」 のいわれです。社殿向拝の龍の彫刻は、昭和三〇年、後藤義孝の彫刻です。七月の祭礼には二人の神童が歌う木遣り歌で始まる「お船」が繰り出されます。【現地案内板より抜粋】海沿いを走っていると、小径の奥に説明板を見掛けて、急遽立ち寄ってみました。駐車スペースあります。
石橋山の戦いに敗れ再起を図った源頼朝公がこの先の竜島海岸に海路でたどり着き、宿泊した神明の森が今の神明神社と伝わっています。この地では、上総広常を始めとする安房の有力武将に文を出して、麾下につくように交渉した場所ともなります。石橋山の戦いで惨敗した後、神がかり的な再起を図る第一歩がこの静かな神社だったと思うと、胸が熱くなります。まだまだ、この地に源頼朝公が居た頃は、情勢が定まらず、源頼朝公も身を隠すようにコソコソしていた頃、また、妻の北条政子も源頼朝公が真鶴から脱したことを知ったものの安否も分からず秋戸の郷で不安のまま悶々と過ごしていた頃、上総広常は源頼朝公の力量を図ってやろうと虎視眈々といった頃になります。神社の境内にはご由緒を表すような案内坂はありませんが、こんな感じの内容かなと思います。とってもドラマティックです。
石橋山の戦いに敗れ再起を図った源頼朝公がこの先の竜島海岸に海路でたどり着き、宿泊した神明の森が今の神明神社と伝わっています。この地では、上総広常を始めとする安房の有力武将に文を出して、麾下につくように交渉した場所ともなります。石橋山の戦いで惨敗した後、神がかり的な再起を図る第一歩がこの静かな神社だったと思うと、胸が熱くなります。まだまだ、この地に源頼朝公が居た頃は、情勢が定まらず、源頼朝公も身を隠すようにコソコソしていた頃、また、妻の北条政子も源頼朝公が真鶴から脱したことを知ったものの安否も分からず秋戸の郷で不安のまま悶々と過ごしていた頃、上総広常は源頼朝公の力量を図ってやろうと虎視眈々といった頃になります。神社の境内にはご由緒を表すような案内坂はありませんが、こんな感じの内容かなと思います。とってもドラマティックです。
宮彫りは後藤義光の孫、3代目義光の実弟の義孝の作品。国会議事堂の参議院玉座などを手がけたそうです。
この神社、私が訪問したのは2020年5月、昨年の台風で壊れて改築中であった。小さな神社で、前の広場で小学生が遊んでいた!のどかな神社でありますが!近くに石橋山の戦いで敗れた頼朝が上陸した海岸があります。命からがら逃げて来て!この神社に泊まり、ひと安心!ここで今後の方策を思案!房総でイチバンの上総広常のもとに行くことを決めた! 再起の地であります。
地域の小さな神社という感じですが、意外と彫刻が立派なもので、本殿の欄間には、鯛もいます。駐車場は、ないですが、車は港の方に停めておけるかも、しれません。
| 名前 |
神明神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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頼朝上陸地の碑を見に来たんですけど、神社裏の法面が地味に凄い。