長崎の歴史を感じる純景。
長崎純景の墓の特徴
長崎の地名は長い岬に由来する説が面白いです。
声明を発表した長崎氏に関する歴史があります。
隣の時津町には長崎ゆかりの人物の墓があります。
長崎の地名の由来は、「長い岬」からきているという説があるが、長崎氏(鎌倉幕府御家人の流れを汲む在地領主)の姓に因んだという説もある。14代長崎甚左衛門の代に大村純忠の家臣となり、長崎港を開いて交易の準備を進めた。父は長崎左馬太夫純方。妻は大村純忠の女とら。長崎は元亀元年ポルトガルの貿易港となるが、慶長10年秀吉に天領として没収されると、甚左衛門は柳川の領主田中吉政の下に去り、後に時津村に来住して隠棲・その地で死去した。元禄15年(1702年)子孫の大村内匠助長頼が建てた純景夫妻の墓碑は「長崎甚左衛門の墓」として長崎県史跡に指定されている。~以上文献引用~近くにある直売所の回転焼き80円、あんこたっぷり美味しい。甚左衛門焼きの看板ありますが、現在は作っていないとのことでした。
長崎にゆかりの人物の墓が隣の時津町にある事実。当人は元の館に帰りたかったろうと思いました。
小山の向こうの某県立高校からの抜け道、近道があります。歴史的意義は知らずに見た若者も多いのではないでしょうか。
名前 |
長崎純景の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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長崎 甚左衛門純景(ながさき じんざえもん すみかげ、天文17年(1548年)? - 元和7年12月22日(1622年1月25日))は戦国時代・安土桃山時代の城主。キリシタン大名。洗礼名は「ドン・ベルナルド」。大村純忠は岳父。肥前国西彼杵郡長崎に拠った。祖父・有馬康純が長崎氏の養子に入り「長崎」を名乗った。戦国時代には大村氏に従属していた。反キリスト教の西郷純堯、深堀純賢兄弟による襲撃に悩まされ、岳父の純忠の薦めによって長崎をイエズス会に寄進した為、所領のほとんどを失った。その後も大村氏に従属して、西郷・深堀氏の水軍による侵攻を幾度も撃退している。しかし、長崎郊外の所領も豊臣政権の九州征伐によって接収されて長崎の一部に組み込まれると、わずかに残った所領も江戸幕府の差配によって大村氏に付け替えられる(1605年)。独立勢力としての所領を完全に失った純景に、大村氏から700石の代地を提示されるが、これを蹴って大村氏の家臣団を離れ、各地を流転した後に筑後国主の田中吉政に仕えた。後継の忠政の死去をもって田中家は断絶、元和6年(1620年)に改易されると純景は実弟が守る大村藩に戻り、100石で仕えた。元和7年(1622年)、時津にて没した。ウィキペディアより抜粋勤務中の偶然の発見。気になって調べた事で、かの御仁の名と、歴史的背景や功績を知りました。もっと多くの人に知ってもらいたいです。