木々と共に感じる金沢の記憶。
旧制金沢一中名残のモミの樹と赤松の特徴
周辺には緑や巨樹が多く、自然の魅力にあふれています。
本多通りから金沢歌劇座を過ぎた場所に位置し、アクセスも良好です。
旧制金沢一中の歴史を感じられる貴重な場所で、訪れる価値があります。
金沢泉ヶ丘高校の前身(金沢一中)がここにあったとは知りませんでした。立派なもみの木と赤松が残っていました。
周辺は緑や巨樹の多い地区であり、この樹々もその魅力の一部を成している。市民ヅラした馬鹿共には伐採しろなどと短絡的なことを言われているようだが、どこ吹く風で今日も健在である。「お前が避けろ」と言わんばかりの葉の揺らめきを聴きに言ってはいかがか。
本多通りを金沢中警察署から金沢21世紀美術館方向へ走っていると、金沢歌劇座を過ぎた辺りで2車線が1車線になる箇所があります。大きな木々が残っているため、そこだけ1車線になっています。木々の裏側に由来を記した立札がありました。この立札によると、旧制金沢第一中学校(当時は石川県尋常中学校)は、明治30年に加賀藩本多家中屋敷跡地のこの場所に新築移転しました。この木々(モミの樹と赤松)は当時の校門近くにあり、学生たちを見つめ続けたとのこと。その後、校舎は再度移転しましたが、旧制金沢一中の歴史は現在の金沢泉丘高校に引き継がれています。都市開発時にも、「一中の存在を示そう」という一泉同窓生や周辺住民の強い要望があったため木々は残されたとのことです。そう言えば、10年ほど前の一泉同窓会の会報「一泉」に記事があったような記憶が…。若干の不自由より歴史を選んだ方々の粋な計らいに感謝!!
| 名前 |
旧制金沢一中名残のモミの樹と赤松 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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旧制金沢一中の記憶は、建物ではなく木に残った。本多通り沿いのモミと赤松、そしてその木をよけるように見える道路の形が、かつてここに学校があったことを今の町なかで静かに伝えている。この場所でまず目を引くのは、道路の中でそこだけ景色の調子が変わることである。通りの流れの中に大きな木が立ち、道が少し身をかわすように見える。その違和感の正体が、旧制金沢一中に結びつくモミと赤松である。見えているのは樹木だが、実際には土地の記憶そのものを見ていると言ってよい。旧制金沢一中の前身校は1893年に石川県尋常中学校として開校し、1897年にこの地へ移った。のちに金沢第一中学校となり、1937年には富樫町へ移転している。さらに学制改革を経て金沢第一高等学校、金沢泉丘高等学校へとつながっていく。ここで重要なのは年表を細かく追うことではなく、本多町校舎期の記憶が、学校の移転後も現地から消え切らなかったことである。この一帯は、いまでは広坂の都市的な景色の中にある。かつての校地は、現在の金沢歌劇座や県福祉会館の一帯に重なるとされ、近代学校の建物がそのまま残っているわけではない。周囲の用途も景観も変わったが、モミと赤松が残ることで、ここがただの道路沿いではなかったことだけははっきり伝わる。建物が消えたあとに木だけが残ることで、かえって場所の履歴がむき出しになっているのである。案内表示によれば、この木々は校門近く、教官室棟の土塀際にあったとされる。この一点があるだけで、木は単なる古木ではなく、学校生活の出入りに接した木として見えてくる。毎朝ここを通った生徒、帰り際にこの木のそばを抜けた生徒、校門まわりの空気を覚えていた卒業生。そうした人の動きまで想像させるのは、木が校地の外れではなく、学校の顔に近い場所にあったと伝えられているからである。しかもこの校地は、加賀藩重臣の本多家の中屋敷跡にあたるとされる。大木が多く茂っていたため、生徒たちは一帯を「本多が森」と呼んだとも伝えられる。これは伝承として受け取るべき表現だが、現地で木を見上げると、その呼び名がまったく空疎だったとは思えない。学校の敷地を建物の集合としてではなく、木立のある場として記憶していたことがうかがえるからである。ここで大事なのは、木があとから記念のために置かれたものではないという点である。学校が移転したあとも、都市開発の中で生き残り、道路空間の中に組み込まれたからこそ、いまの風景に独特の緊張が生まれている。まっすぐ整えられた都市空間の中に、どうしても消せなかったものが残ったように見える。その感覚が、この場所をただの古木の場所ではなく、旧制金沢一中の痕跡として読ませる。モミについては、2008年の案内表示に、樹齢百年を優に超え、高さ三十メートルに達すると記されている。現在の数値としてそのまま受け取るべきではないにせよ、少なくとも後年の時点でも、旧校地を象徴する存在として見られていたことは確かである。大きな木を前にすると、ここで過ぎた時間は文章で説明されるより先に体で理解できる。目の前の一本が、学校の移転より長く現地にとどまった可能性を感じさせるからである。ふつう、学校の跡地を思い浮かべるときには、門柱や記念碑、校舎の一部のようなものを期待しがちである。ところがここでは、そうしたわかりやすい痕跡よりも、木と道路の組み合わせのほうがはるかに雄弁である。木は風景の一部に見えながら、実際には校地の過去を抱え込んだ存在になっている。だからこそ、この場所は説明を読む前と読んだ後で印象が大きく変わる。何気ない街路の一角が、旧制中学の記憶を抱えた場所として立ち上がってくるのである。学校が移ったあとも、土地の歴史まで完全に消えるわけではない。そのことを、ここでは建築ではなく生きた樹木が教えてくれる。木は年表を語らないが、長い時間を同じ場所で引き受けてきた存在として、校舎や制度の変化とは別の仕方で過去を伝える。旧制金沢一中を思い出す手がかりが、書庫の中ではなく通りの風景の中に残っているところに、この場所の特別さがある。現地ではその静かな残り方がむしろ印象に残る。そこにこの場所の強みがある。今でも確かにそうだ。この場所のおもしろさは、派手な遺構がないのに、過去が現地で読み取れる点にある。石垣や門のかわりに残っているのは、モミと赤松、そしてその木を抱え込んだ道路空間である。木は単なる景観要素ではなく、学校移転後も消えずに残った旧制金沢一中の痕跡として働いている。史跡というより、風景の中に溶け込んだ遺構と言ったほうが近いかもしれない。その意味を補うものとして、2008年には由来看板も設けられた。だが、この場所の核は看板そのものではない。文章を読まなくても、木の立ち方と道の曲がり方に目を向ければ、ここでは何かがまっすぐ消えずに残ったのだとわかる。説明板は読み方を助ける存在であり、主役はあくまで現地に立ち続ける木々と、その木を抱えた土地の形である。旧制金沢一中はすでにこの地にはない。しかし、本多通り沿いのモミと赤松は、学校がここにあった時代を町の中にとどめている。校舎がなくなっても、木と道路の形が残れば、校地の記憶まで消えずに済む。そのことを、ここは派手な言葉なしに見せてくれる。