在原業平邸跡で文化探訪。
在原業平邸址の特徴
漫画や映画ちはやふるの舞台、在原業平の邸宅跡です。
御池通りの北西角に石碑が立っており、存在感があります。
伊勢物語の由来を感じる歴史ある場所で、訪れる価値があります。
漫画・映画「ちはやふる」の元となった「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは」を詠んだ在原業平の家があった場所です。御池通り沿いの角にありますが、通りに対して90度横を向いていて消火栓や自販機の横にひっそりとあるので大半の人が素通りして気が付きません。しかし「ちはやふる」はじめ小倉百人一首ファンなどが訪れ、何度か写真を撮って欲しいとお願いされました。
御池通を東に向かって歩いていると、この石碑を見かけます。歴史の教科書に出てきた在原業平の邸宅跡ですが、在原業平が何をした人なのか、もう思い出せません。
御池通りに面したビルの北西角に石碑のみ建っています。烏丸御池から4筋東です。広い屋敷だったようです。万葉の歌人。六歌仙。三十六歌仙。千早ふる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは。
御池間之町通の南東角に「在原業平邸跡碑」があります。石碑のみで案内板は設置されていません。
百人一首のちはやふるの人。兄の在原行平も著名な歌人で、百人一首の立ち別れの人。
石碑が立つのみで説明書きなどはありません。
町かどに、石碑が建っているのみ。業平といえば、『伊勢物語』の主人公としてのイメージが強く、恋愛したり駆け落ちしたり隅田川のほとりで泣いたりしては歌を詠んでいた感じだが、貴族としてちゃんと数々の官職を順序を踏んで歴任している。五十すぎで従四位上右近衛権中将となり、相模権守、美濃権守、蔵人頭を兼任してゆき、56歳で没したというから、手堅く官吏をやっていたのであって、歌は恋情を詠んだものが多いとはいえ、アバンチュールに明け暮れる超イケメン、というのは虚像のようである。
伊勢物語ってネカマ要素あったっけ?
六歌仙にして本邦初のネカマの元祖とされる伊勢物語は在原業平の邸宅跡とされる。在原氏は平城天皇と桓武天皇の孫に当たるも、薬子の変によってメインストリームから弾き出され、臣籍降下した氏族なのである。鴨長明「無名抄」には以下の記述がある。業平家事又、業平中將の家は、三條坊門よりは南、高倉面に近くまで侍りき。柱なども常のにも似ず、ちまき柱といふ物にて侍けるを、いつ比の人の仕業にか、後に例の柱のやうに削りなしてなん侍し。長押も皆まろに角なく作りて、眞に古代の所と見え侍りき。中比淸明が封じたりけるとて、火にも燒けずしてそのひさしさありけれど、世の末にはかひなくて、一年の火に燒けにけり。また『日本三大実録』には「体貌閑麗、放縦不拘」、「略無才学、善作倭歌」と記されている。現代で言えば阿保だけどイケメンで歌の上手い憎めないやつなのだろう。もしくはフリースタイルやらラバダブの上手いパリピ野郎なのだろう。ここを通る時にはふと一瞬でも千年前のパリピパイセンのことを思い出してほしい。
名前 |
在原業平邸址 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na014.html |
評価 |
3.2 |
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御池通りを歩いていたらありました。【平安時代初期の歌人で六歌仙のひとりである在原業平の屋敷跡】在原業平は平安時代初期の皇族・貴族・歌人。天長2年~元慶4年。業平の父は平城天皇の皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王という大変高貴な家柄であった。しかし、祖父・平城天皇が起こした「薬子の変」のあおりを受け、業平の幼いころに臣籍降下して在原姓を名乗った。その後は貴族のひとりとして仁明天皇、文徳天皇、清和天皇、陽成天皇に仕え要職を務めた。また、歌人として六歌仙・三十六歌仙に名を連ねるほどの歌を残しており、大人気マンガ・アニメ「ちはやふる」に登場する「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは」も業平の体表的な歌のひとつである。ちなみに、平安時代に成立した歌物語「伊勢物語」の主人公のモデルは業平であるとされている。周辺は、平安時代頃の里内裏跡が点在しているので、これらをまとめて回るのがおすすめ。