小田原で歴史を感じる、北条氏のお墓へ。
北条氏政・氏照の墓所の特徴
北条氏政と氏照の墓は、歴史的な背景が深い場所です。
鈴がたくさんつけられていることが、切ない思いを呼び起こします。
おしゃれ横丁の片隅にひっそりとある、願掛けのスポットです。
最近、滝山城跡、八王子城跡に行って氏政に親しみを覚え、ここを再訪したくなりました。感慨深いものがあります。
小田原合戦の責任を取って自害させられた4代氏政と弟氏照 (八王子城主)は、この場所にあった伝心庵に葬られました。後に伝心庵は移転し、墓は放置されてしまいましたが、稲葉氏の時代に、追福のために作り直されました。しかし、それも関東大震災で埋没し不明となったため、翌年地元の有志によって復興されました。 墓地内には、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠や、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石があります。
9月14日(日)に訪問しました。市街地の中にひっそりとまつられています。道路から数段の石段を上がると、狭い中にも秩序だてて、右から氏政の妻、氏政、氏照の墓になります。現代と歴史が入り混じっているような気がしする場所です。
このお墓は北条氏の栄華を見届けた北条氏政の矜持が込められてるような気がするよなー😓それにしても…北条氏滅亡後(正しくは北条氏は滅亡しておりません!大阪の南河内に1万石の領地を得て徳川政権下の小大名として明治維新を迎えております)の小田原のこのお墓はしばらく放置状態にあり、後に小田原藩により再建されたが関東大震災により再び倒壊の上行方不明💦このようにとんでもなく波乱万丈に富んだ経歴をもつお墓やねんけど…なんでそこに氏政が自害されたと伝わる石座が残ってるんでしょ🤔謎やなー😓
豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は敗北し、4代目の氏政とその弟、妻は自害しました。その墓がここにあります。この墓には鈴が多くあります。小田原攻めでは民のことを考えて敗北を認めた北条氏になぞらえ、近隣の店で鈴を買い、願いが叶ってこの地に鈴を結ぶことで2人も安らかに眠れる、というお話のようです。
GWのお祭りの時期に小田原に誘われる様にフラッと来たら5/3だけがお祭りだと思っていたので5/3〜5までお祭りだったことに大感激!!お墓には行ってみたかったけどツイツイ第1優先ではなく後回しにしていたけど松原神社とこちらのお墓に今日は導かれてるんだなって思い時間的にも明るい時間だったし駅から近いしご飯どころを探しながら行くかって気持ちで行ってみた!おしゃれ横丁?おしゃれ通り?みたいな細い路地を御神輿が練り歩いていて、そこを追いて行くかのように彷徨っていると鈴のついた一角があり階段を登ると、こちらのお墓がありました。こちらの事を調べると小田原合戦の責任を取って自害させられた4代氏政と弟氏照 (八王子城主)は、この場所にあった伝心庵に葬られました。後に伝心庵は移転し、墓は放置されてしまいましたが、稲葉氏の時代に、追福のために作り直されました。しかし、それも関東大震災で埋没し不明となったため、翌年地元の有志によって復興されました。墓地内には、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠や、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石があります。ということでした。伝心庵はお墓も一緒に連れて行って欲しかったなぁと思ってしまった。将門や道真のようにならなくて良かった。小田原をいつまでも守っていてほしいです。海辺の土地なので津波等に見舞われない様に、、、そして、鈴は周囲のお店でスタンプラリーをしていて鈴を頂く事が出来ました。願い事が叶ったら鈴をつけに帰ってきたいと思います。木に覆われたり、奥に追いやられたりしているところでなくてよかった。明るくて良いところですよ。小さい一角ですが皆さん五代祭りの時だけでも立ち寄って思い出してもらうとよいですね。
小田原駅東口から徒歩3分程度。狭い墓地には、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠があります。また、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石も残っています。
此方に結ばれている鈴に関して、設置してあるお渡し用の箱から受領した直後から良いことばかり起こっています。次にお参りする際はお返ししに行きます。
北条氏政、氏照の墓所です。現南町にある屋敷で亡くなったようです。
| 名前 |
北条氏政・氏照の墓所 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0465-33-1521 |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| HP |
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/corridor/castle/p10000.html |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
|
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北条氏政・氏照の壮絶な最期のドラマでは描かれない隠された本当の史実とは?詳しい解説は以下の通りです。隠された本当の史実⦿氏政は『暗愚』ではなく領国を安定させた名君世に伝わる『汁かけごはん』(ご飯にみそ汁を二度かけて食べた)という逸話や『暗愚』な丹将というイメージは、江戸時代の儒学者たちが北条氏の滅亡を正当化するための創作した俗説です。実際の氏政は、父・氏康の時代から関東全域を安定時に支配し、領国経営に優れた手腕を発揮した四代目当主でした。⦿小田原城での『小田原評価』は無能さの現れではない。小田原城での長い会議『小田原評価』は結論が出ずにグタグタと時間がすぎた代名詞のように使われますが、現代の歴史学では、『全くの誤り』とされています。当時、北条氏は関東一円に支城網を張り巡らせており、各城が連携して、秀吉軍の補給路を断つ戦略(時間稼ぎ)を企てていました。決して優柔不断で決断できなかったわけではありません。⦿氏照は『血気盛んなタカ派』ではなく、外交の司令塔。弟の氏照は強硬な徹底抗戦派として描かれますが、彼は北条家の外交軍事のトップとして、東北の伊達氏や関東の諸大名との同盟を取り仕切っていた極めて優秀な武将でした。実際、秀吉の圧倒的な武力を前にしても、関東の独自性を守り抜こうとする強固な政治的信念(東国武家社会の伝統)があったため最後まで妥協しなかったのです。⦿切腹の際、弟の氏規がとった行動ドラマでは兄弟の壮絶な自刃シーンで終わることが多いですが、本当の史実では自害する氏政・氏照の介錯(首をはねること)を務めたのは、弟の北条氏規でした。氏規は秀吉に降伏して北条家の命脈を保とうと尽力しており、兄弟の介錯を終えた直後に自分も腹を切ろうとしましたが、徳川家康の家臣である井伊直政に取り押さえられ、未遂に終わったという生々しい記録が残されています。