名前 |
近松寺舞鶴園 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
本堂(法皇殿)の裏手にある、境内書院前の庭園は、豊臣秀吉に随行した曽呂利新左エ門の築庭と称せられ正面の築山は満島山(現在の舞鶴公園)を写し、左側数本の松は虹の松原を型とり、右側は現在の西の浜を模し、全面の白砂は海面になぞられ、全体を総して唐津湾頭の風景を模写した図案的な築庭であります。2018年2月20日に拝観した際は、庭園と本堂の間に有った擬木の柵が、本堂から約1.5mの位置に立っていましたが、6月に拝観したときは、庭側に倍くらいせり出し、休憩用のベンチが置かれていました。が、率直な感想として庭園破壊だなと思いました。(2018/06/20)曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)生没年不詳。安土(あづち)桃山時代の人。豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)と伝えられる。和泉(いずみ)国(大阪府)堺(さかい)または大鳥郡の出身という。刀の鞘(さや)師が家業で、刀を差し入れると「そろり」とよく合ったため曽呂利といわれたという。本名は杉本甚兵衛(じんべえ)とも坂内宗拾(さかうちそうしゅう)とも伝えられる。和歌、茶道、香道と狂歌をよくし、話上手なうえに頓智(とんち)の才があり秀吉に愛されたという。その頓智話は『甲子夜話(かっしやわ)』などの随筆集に収められ、また『曽呂利狂歌咄(ばなし)』などが残されている。しかし実在の人物であったかどうか不明。[煎本増夫] また豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた名護屋城に随行した時期に唐津の各地に築庭したという伝承も多く残っており真偽は定かではありません。