武田の歴史を感じる道。
馬場美濃守信春屋敷跡の特徴
甲斐武田家の家臣団に名を刻む武田二十四将の一人がいた場所。
古地図と現代地図を照らし合わせながら楽しむことができる史跡。
当時の屋敷跡の状態に近く、広さを感じられる珍しいスポット。
甲斐武田家の家臣団・武田二十四将の一人に数えられ、その中でも四天王と呼ばれた武将。1514年?~1575年甲斐在地節集団武川家の流れの筆頭・教来石信保の子として生まれ、教来石景政と名乗っていた。教来石家は諏訪と接する地域を領していた。武田信虎の代に、嫡男晴信(後信玄)初陣である海の口城攻めで功績があった。1541年の武田信虎駿府追放のクーデターでは、中心人物・板垣信方に従い、以後武田晴信家臣として躍進。1546年晴信の命で、侍大将に抜擢、それとともに信虎の代に断絶されていた武田譜代の名門馬場氏の名跡を継がせ、民部少輔に任じ、更に名を武田晴信の一字から「馬場民部少輔信房」と名乗らせる。1559年武田家譜代家老衆の一人まで上り詰め、武略・内政の多方面で晴信の領地拡大に尽力する。1561年、越後上杉謙信との第4次川中島の戦いでは、別働隊を指軌し上杉軍の背後を攻めた。1565年、原美濃守虎胤の病死により、美濃守を継承、名も信春に改め「馬場美濃守信春」となる。1568年、今川攻めにおいて、先陣を務め今川館焼討に成功。1569年、三増峠の戦いでは先鋒として、北条軍に向かい戦功をあげる。1572年、三方ヶ原の戦いで、乱戦の末敗走する徳川家康を追撃した。1573年、武田信玄晴信の死去。これにより武田勝頼を山県昌景とともに、譜代家老衆筆頭として補佐する。1575年、織田・徳川連合軍との長篠の戦い。戦局を見極め、重臣である(四天王)内藤昌豊、山県昌景とともに攻撃を控え退却を説くが、総大将武田勝頼以下側近らから却下され、総攻撃の方向へ。その結果大敗を軋し山県・内藤などの重臣も次々と倒れ討死、馬場信春も武田勝頼が敗走から落ち延びるのを確認、満身創痍ながら、追撃しようとする敵から本陣を守り討死した。享年61歳。後記として織田信長も敵将馬場美濃守信春の戦いぶりを賞賛したという。この長篠での大敗後、重臣の多くを失った武田家は衰退の一途をたどる。馬場信春は40年・70回以上の戦に出陣し数々の武功を挙げながらな、1度もその体に傷を追わなかった、という。それだけ戦においては慎重で冷静に戦局を見極めたのだろう。
武田二十四将の一人信玄、勝頼に仕えた武田の重臣中の重臣。
史跡としてはあまり残っていませんが、当時の屋敷跡の状態に近い形で道が通って古地図と現代地図合わせながらみても其れなりに楽しめますし、家が立ち並んでいる分こんなに広かったのかと感じることもできます。看板があり、知らない人にもわかりやすく説明が書いてあったので有り難かったです。
碑と説明板がありました。
名前 |
馬場美濃守信春屋敷跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
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道路際に看板が立っているので、見過ごさないように!