目白坂の清土道で心安らぐ。
幸神社の特徴
椿山荘の脇に位置する、隠れ家的な小さな神社です。
毎朝参拝して心を整える場所として人気があります。
静かな雰囲気の中で、心癒される特別な時間が過ごせます。
目白坂の上、椿山荘東側と関口台町小学校の間に鎮座するこじんまりした神社、説明版では前の通りを清土道とあるが一般的には清戸道と称される例が多いと思うがどちらが正しいのか確認はできなかった。
2024年3月16日参拝江戸川橋から目白坂坂を椿山荘方面に登ると椿山荘の手前にある神社⛩とても小さな神社やけど掃除が行き届いており地域の人々の尊敬を集めとることが伺えやす境内には保護樹林のイチョウの大木もあったさあ🌳
2024.11.04 朝の散歩。参拝、祈願する神社。神社の名前も気になら参拝。
江戸川橋公園から目白通りでなく側道抜道を登ると椿山荘手前。詳しい由来は↓説明文に依ると神像が出て来たのはこの地の下は入江だった所からとか。
こじんまりとしていますが、手入れされています。幸神社という名前で祭神が猿田彦命とのことでしたので、庚申由来の名前なのでしょうか。
祭神は、猿田彦命・稲荷大神です。創建年代は不明ですが、祭神の猿田彦命の神像は、その昔当地の滝下が入江であった頃海中より出現したもので、神体全体に蛎殻が付着していたと伝わります。かつては神木の根が植えられた庚申供養塚があり、そこに猿田彦命を安置したといいます。なお、幸神社が面する道路は、かつて「清士道」とよばれ、江戸・東京から練馬などの西北近郊の村々とを結ぶ主要道の一つでした。道の神である猿田彦命を祀った当社は、清士道における江戸・東京の出入り口に位置し、道行く人びとの安全を祈った祠でありました。
毎朝参拝させて頂いております😃
境内で気になった点を記載する。【以波末の桜碑】「以波末之桜」と刻む石碑あり。反花座の上に設置されている。裏面に漢籍碑文。以下、翻刻・訓読・私訳する。『白文』此樹也従五位下丹波守源政武朝臣所命也徴諸古今集所載和歌者矣因記事別置于祠頭乃欲俾傳馥郁於千載而不朽也盈等故立石以述云明和丙戌三月手塚 源 正盈 村岡 平 正甫 撰 福原 大江 就壽 建 三宅榮茂 刻『訓読』此の樹や,従五位下(ジュゴイゲ)丹波守(タンバノカミ)源(ミナモトノ)政武(マサタケ)朝臣(アソン)命ずる所なり。諸古今集に徴し,和歌に載さ所(ル)るなり。記事因り,祠頭(シトウ?)に別置(ベッチ)せよ,乃ち,千載不朽に馥郁(フクイク)を伝え俾(シ)むと欲するなり。盈等,故に石を立て,以て,述ぶと云う。明和丙戌三月。『私訳』この桜は,従五位下 丹波守 源 政武 朝臣が仰せになる所のものです。(それは)幾つかの和歌集に求められ,和歌に記録されています。記載の事実によりますと、(政武様は)「(この桜を)祠の前に移動させよ」と,すなわち,千年後まで朽ちない様に(この桜の)馥郁を伝えさせなさい,と願われておりました。正盈らは,それゆえに石を立て,そして,述べることにしたのです。1767(明和3)年3月。≪補足≫①「以波末」とあるが何を指すのか不明。地名か。そもそも「いはま」なのか「いわま」なのか「もってなみすえ」なのか。②「従五位下丹波守源政武朝臣」は,『文京区のいしぶみ』によると,幕臣である礒野政武に比定されるとのこと。政武は,徳川吉宗の紀州時代からの家臣。吉宗が将軍になるに当たって,江戸に付いてきた様である。また,歌人として有名だったらしい。③文脈および個人的な予備知識から,「盈」は「手塚 源 正盈」の「盈」と解釈した。④背景情報に分からないところが多く,あまりピンとこない私訳になった。以波末の桜を境内の入口に移し替えた,という話だとは思うが、あまり確信はない。参考までに。
椿山荘よこの小さな神社。猿田彦命を祀っているとのこと。狛犬がかわいい。
| 名前 |
幸神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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幸神社(こうじんじゃ:道山幸神社・駒塚神社)は、東京メトロの江戸川駅の北西550mほどの東京都文京区関口に鎮座している神社です。かつてはこの辺が鎌倉街道の枝道にあたり道の神を祀ったとも、又この辺の長者が金の駒を塚に納め幸神を勧請したとも伝えられ、寛文元年(1661年)頃に神社として祀られたのではないかといいます。明治6年(1873年)に關口八幡神社の附属社と定められました。現在は、關口臺町小學校と藤田邸のコンクリート塀に囲まれて境内も狭く、僅かに聳える中老の銀杏樹に昔の面影が偲ばれるのみです。御祭神は、猿田彦命・稲荷大神・弁財天女神・戸隠大明神です。神社のある「関口(せきぐち)」という地名の由来は、主に「神田上水」という水道の「堰(せき)」があったことに因むという説と、「奥州街道の関所」があったとする説の2つの説があります。9世紀の『和名抄』には「日頭」郷と記されており、鎌倉時代には小日向氏が支配していました。江戸時代には、小石川上水(神田上水)が作られ、多くの大名屋敷や寺院が置かれ、商人や旅人で賑わう交通の要所となりました。松尾芭蕉が神田上水改修工事のため水番屋に住み、「竜隠庵」と呼ばれたこの場所が、現在の芭蕉庵の元となります。明治時代に、黒田家の屋敷を長州藩出身の元帥 山縣有朋が購入し、椿の名所として開いたのが「椿山荘」です.現在では、高台の高級住宅地として知られるほか、東京カテドラル聖マリア大聖堂や、獨協中学校・高等学校、筑波大学附属中学校・高等学校、お茶の水女子大学など教育機関が集まる文教地区でもあります。