本多忠勝の墓所、思いを巡らそう。
浄土宗 良玄寺の特徴
本多平八郎忠勝の墓所があり、歴史を感じられます。
本田忠勝像が伝わる、豊かな文化をたたえるお寺です。
大多喜城が美しく望める、静かな参拝スポットです。
大多喜町の良玄寺です。浄土宗の寺院で山号は金澤山。本尊は阿弥陀三尊像です。このお寺は、1595年(文禄4年)大多喜城主の本多忠勝の開基、照誉了学の開山により創建されたお寺なんです。当初は本多忠勝の法号から良信寺と号しましたが、子の忠朝の死後に忠朝の法号を取って現在の寺号となりました。この良玄寺の裏手にあるのが、忠勝公園という小さな公園です。看板の後ろに小さな展望台(階段7〜8段程度で脚立くらいの高さ)が映っていますが、ココに上がると小さ〜く大多喜城🏯が見えます。この忠勝公園内には、正岡子規の歌碑もあります。「掘割や藪鶯を両の耳」正岡子規が学生時代24歳の時に大多喜の旅館に宿泊して房総半島の紀行文を記したことから、ココに歌碑を設置したとのこと。忠勝公園を奥へと歩いていくと…どんつきに本多忠勝のお墓がありました。徳川家康に「過ぎたるものは二つあるり、からのからしに本多平八」徳川の好敵であった信玄の軍が、さすが敵ながらあっぱれと、本多平八郎忠勝を褒め称えた歌があります。本多忠勝は戦国の世にあって、並びなく剛勇として知られ徳川四天王の一人としてその名を馳せました。天正18年北条氏が降りるや、その8月に忠勝は大多喜城十万石に封じられました。そして忠勝は、新しく近世大多喜城の築城にとりかかったのです。在職11年、伊勢の桑名城に移り、慶長15年10月18日、忠勝は63歳の波乱の生涯を閉じたのです。本多忠勝の骨は分骨されて、ここに埋葬されました。大多喜城で亡くなった忠勝夫人と、大坂夏の陣で戦死した2代目城主本多忠朝とこの地に静かに眠っています。
令和7年3月30日にイベントがあります。御朱印の頒布とお饅頭とクリヤファイルの進呈があります。ご参加お待ちしております。
忠勝公のお墓が近くにありますね。
ここからの大多喜城はとてもきれいによく見えます。
本田忠勝の墓があるということで訪れてみました。お墓は本田忠勝の奥方と本田忠朝と一緒にありました。本堂の横を通って奥にありました、看板がありましたのでわかりやすいかと思います。
本多忠勝と云えば、鹿の角が突き出した兜を被った武者絵を思い出しますが、その武者絵「紙本著色本多忠勝像」が伝わっていたお寺がこちらです。因みに、あの兜は、「鹿角脇立付兜」と言い、鹿の角が正しいようです。元々は、本多忠勝の法号から良心寺と号していましたが、息子の本多忠朝の死後は、忠朝の法号を取って現在の良玄寺という寺号に変わってそうです。また、境内の墓地には、本多忠勝・忠勝の室、忠朝のお墓が並んでいます。
本多忠勝と云えば、鹿の角が突き出した兜を被った武者絵を思い出しますが、その武者絵「紙本著色本多忠勝像」が伝わっていたお寺がこちらです。因みに、あの兜は、「鹿角脇立付兜」と言い、鹿の角が正しいようです。元々は、本多忠勝の法号から良心寺と号していましたが、息子の本多忠朝の死後は、忠朝の法号を取って現在の良玄寺という寺号に変わってそうです。また、境内の墓地には、本多忠勝・忠勝の室、忠朝のお墓が並んでいます。
本多忠勝公の菩提、正面右手奥には墓が有ります。静かな佇まいで落ち着けます。脇に忠勝公園があり、トイレと大多喜城を一望出来る展望台が有りますが、展望台は一寸朽ちてる感があるので、注意してください。本堂を覗いてみると、本多忠勝と言えばコレ!っていう肖像画が掲げられてます。知らんって言う人のために、大原駅で撮ったのも載せておきます。よく描けてます(笑)
源頼朝ゆかりの寺。この地のパワースポットです。
| 名前 |
浄土宗 良玄寺 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
03-3492-2030 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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千葉県夷隅郡大多喜町にある良玄寺は、徳川四天王の一人である猛将・本多忠勝侯が創建した、本多氏ゆかりの浄土宗の寺院です。山号は照光山。いすみ鉄道の大多喜駅から徒歩約15分、大多喜城の城下町の一角にひっそりと佇んでいます。