推古天皇創建の神社、深閑とした雰囲気。
楯縫神社の特徴
延喜式内社で由緒ある神社、創建は608年と古い歴史があります。
深閑とした雰囲気が漂う杉並木の参道が特徴の神社です。
本殿には精緻な彫刻が施され、普都主命が祭られています。
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)創建は推古天皇16年(608年)主祭神:普都主命(フツヌシノミコト)普都神話に創祀の縁起を求める。曰く、普都大神は、葦原中国平定の後、木原で甲楯を脱ぎ、高来里で登天した。甲楯を脱いだことから「楯脱」の地名が生まれ、後に「楯縫」になった。社地には「楯脱山」の地名が残る。(引用:wikipedia より)
延喜式内小社の由緒ある神社で、境内の深閑とした雰囲気は式内社の風格と威厳を感じます3キロほど南東に同名を持つ論社の信太楯縫神社がありますが、こちらの神社の方が境内の手入がよくされており、参拝者も多いと見受けます拝殿はいたってシンプルですが、本殿は木鼻や脇障子に施された彫刻が精緻で素敵です御祭神は普都主命(ふつぬしのみこと)で、本殿の鰹木は5本奇数ですが、千木は横削ぎとなっていて想像が膨らみます。
御祭神は普都大神(経津主命)。創建は推古天皇16(608)年とも神武天皇18年とも和銅元(806)年とも云われる。常陸風土記の信太郡の条に、葦原中国を平定した普都大神が、身につけていた楯などを脱ぎ、白雲に乗って登天されたとあることから、この地が「楯脱」後に「楯縫」となったそうです。延喜式神名帳の常陸国信太郡の「楯縫神社」に比定される式内(小)の論社で、他の論社としては美浦村信太に同名社があります。興国元(1340)年、53町歩余あった神領が高師冬の臣・屋代信経の略奪に遭い荒廃するが、文明8(1476)年に土岐(原)氏・近藤氏により再建。近世には信太郡東半分の総社として信太郡一宮を称した。なお、西半分の総社は阿見町竹来の阿彌神社(信太郡二宮)で、当社より阿彌神社へ渡御する祭事「鹿島神事」があったそうです。明治6年県社列格す。当社は、古杉森々と繁茂し幽靜にして雅致なる御神域でありますが、もうひとつ。聖地巡礼(ご当地アニメじゃありません)を始めて5年。ずいぶんかかってしまいましたが、常陸国式内社28座27社、一般に云われる論社16社を含めると総計43社。当社を以て全て参拝することが出来ました。感無量であります。
祭神は普都主之命鳥居から100m以上ある参道は杉の木々が茂り静寂につつまれた神社です。御朱印ですが社殿に向かって左側に階段あり、下りた先に宮司さん宅があるのでそちらで頂けます。
とても素晴らしい気の漂う神社です。鳥居をくぐるとピーンと張りつめたひんやりした空気に包まれます。すばらです。
延喜式内社。古名は信太郡一宮。森の中にある神社。拝殿には、歴史が刻まれている。御朱印は拝殿に案内があり、電話をして確認してから、向かうと良いでしょう。拝殿左手に手すり付きの階段が、あり、正面に竹林を見て、右まわりで竹林をまわりこんだお宅で直書き御朱印頂きました。¥300
友人と行きました。地元の近くに、このような神社が有るとは今まで知りませんでした。江戸崎城主土岐原氏に興味が有ってその辺からこの神社の存在を知りました。
延喜式神名帳に記載される式内小社、社伝によれば創建は推古天皇16年(608年)、一説によると普都大神(経津主神)が、葦原中国平定の後、木原で甲楯を脱いだことから「楯脱」の地名が生まれ、後に「楯縫」になったとあります。雨上がりに行ったせいか、樹が茂ってる境内は爽やかで何となく明るい雰囲気に満たされています、少し体が疲れていましたが参拝が終わり少しのんびりしたころには軽くなっていました。久しぶりに再度参拝しましたが、良い雰囲気は変わらずでのんびりしてきました。森に囲まれているような大きめの境内で椅子もありますので深呼吸しながらいると気が楽になります。駐車場は入口の鳥居の脇に何台かとめられる場所があります。
歴史が古く世襲制の神社で心静に毎年元朝詣りしています。
| 名前 |
楯縫神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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楯縫神社(たてぬいじんじゃ)。茨城県稲敷郡美浦村。式内社(小)、旧県社。主祭神:普都主命(普津主神、普都主大神)配祀神:大己貴命二座、須佐之男命、宇迦魂命二座、皇産靈命、市杵島姫命、熊野加夫呂岐命資料によると、社伝によると、推古天皇十六年(608)の創祀。御祭神・普都主命が兜楯を脱いでこの地に残された故事にちなんで、楯脱ぎ(楯縫)の社号となったという。式内社・楯縫神社に比定されている古社。鎮座の年代は、一説には神武天皇十八年とも、元明天皇和銅元年とも。古来、信太郡一の宮として崇敬され、境内北の方に、杉の巨木の根幹(径六m)があって「木原」の地名の起りともなったという。当社祭神・普都主命は、竹来の里より登天したと伝えられ、普都主命の神輿を供奉し霞ヶ浦を渡御して、竹来二の宮阿彌神社へ送る古式祭が行われていた。明治六年、県社に列し、明治四十一年、無格社厳島神社を合祀。とあります。