運天港に眠る源為朝の伝説。
源為朝上陸記念碑の特徴
源為朝上陸記念碑は、東郷平八郎の揮毫が重要な価値を持つ場所です。
記念碑は保元の乱後、源為朝が上陸した証を伝える歴史的なスポット。
運天港を見下ろす高台に位置し、細い路地がアクセスの難しさを引き立てます。
源為朝は源頼朝の叔父だそうです。詳しい歴史や経緯の資料はこの場所で見当たりませんでした。運天港を見下ろす素晴らしい場所に記念碑が立っています。雰囲気の良い東屋も併設されています。
今帰仁村運天に有ります。運天森園地の写真も掲載しました。
沖縄の北部に訪問する度に挑戦しましたが中々辿り着けませんでした。沖縄の車載ナビは認識しない道路、施設があるので、Googleマップが必須です。記念碑の案内板が消えているので、運天港を正面にして右→に入って1分で到着します。
2023.10.26源為朝は有名な頼朝の叔父に当たる人物で、保元の乱で敗れ伊豆大島に流されたものの、伊豆大島を統一してしまった強者。その反乱により討伐軍が送られ死亡したというのが歴史だ。しかし落ち延びて、喜界島や加計呂麻島を経由して琉球へたどり着いたという伝説かある。渡海時に嵐にあい、運を天に任せてたどり着いたのがこの運天港とされる。その後、初代琉球王である舜天王の父親になってしまうという盛りすぎのお話しだ。事実なら舜天王は頼朝の従兄弟になるぞ。そのことが書かれた「中山世鑑」が編集されたころの琉球は、薩摩に侵攻されてから40年ほど経過している。上手く付き合う上で琉球も薩摩と同じ源氏なんだよ、ということが言いたかったため作られたものだと思っている。つまり舜天王統についても神話の世界だと思う。そんな源為朝を利用したのが大日本帝國で、琉球処分後の沖縄県を日本国家に組み込むための愛国教育として、大正11年に建てられたものと理解している。石碑の揮毫は連合艦隊司令長官 東郷平八郎元帥で、大正時代に建碑さられた貴重なものだ。意味深長な場所だが、港を見下ろす展望台が近くにあるのでセットで行くとよい。
記念碑は、在ります、価値が有るのは、東郷平八郎の文字が刻まれてる事くらいかな、廃藩置県後、琉球の民を、為朝の子孫だと思わせる為の大嘘で(笑)、因みに私の家系図も、その嘘の情報で、先祖由来の名前を変えて、為朝の朝を名前につけてます、時代は正にこの記念碑の時期です(笑)考えてもわかる事、文献に残ってないし、時の英雄東郷平八郎が、態々自ら石碑建てる事は?政治的な思想がある、つまり嘘石碑です。妄想で見るなら良いかも知れませんが史実でないでしょう(ーー;)
大正11年建立と刻まれていたが 今は誰の手にも お世話になっていない様子。も少し 手入れされればと思います。
この辺りの地名は運天といいます。源為朝が、伊豆大島から逃れてきたときに、暴風雨に遭い「運を天に任せる」と、辿り着いた地が地名の由来でもあるとも言われているそうです。源為朝はこの地で大里按司の妹をめとり一子をもうけました。この子が、尊敦(後の琉球王国の祖、舜天王)で。その後、妻子を連れて帰ろうとしたが、波風に妨げられて、妻子を牧港に残しひとり帰国したそうです。妻子は為朝の帰りを待ちわびたので「まちみなと」=牧港といわれるようになったそうです。子供の尊敦はやがて浦添按司になりやがて王位に就き、舜天王となり琉球王国を治めたということです。カーナビでは検索しても出ないので、googlemapで調べて大体の地点をセットして出かけました。近くに2台くらい駐車できるスペースがありました。
運を天にまかせるから運天なーんてのがありますがまぁ、創作伝説。元は(少なく見積もっても15.16世紀までは)運天はコモケナ、雲慶那、雲見、運見と呼ばれていたため、源為朝が生きたのが12世紀頃という点で整合性が取れませんし、為朝上陸は考古学的に否定されています。おおかた薩摩による日琉同祖論の産物でしょう。それで、この碑は「琉球人」と差別があった明治大正に必死に日本人になろう(皇民化しよう)とした沖縄県民や、それに応えた東郷平八郎、あの時代の人々の思いなわけです。戦前の皇民化を知るとても素晴らしい資料なのでその意味でこの碑は評価できるものです。
源為朝上陸碑。運を天にまかせて、ここに上陸したから運天と名付けられたという説です。そして、為朝は、妻子を残して浦添の港から帰郷しています。
| 名前 |
源為朝上陸記念碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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保元の乱で敗れ伊豆の大島へ流されたとされる源為朝が流され流れ着いた運天港、その後大里按司の妹と結婚して琉球の初代の王瞬天誕生したと言われる。