柳宗理の父が育んだ我孫子の歴史。
村山邸(柳宗悦旧邸三樹荘)の特徴
柳宗悦旧邸三樹荘は民藝の文化を感じる場所です。
嘉納治五郎の甥である柳宗理の父ゆかりの地です。
かつての往時をしのばせる静かな雰囲気が魅力です。
民藝の人嘉納治五郎の甥柳宗理の父。
私有地につき入れませんが往時が忍ばれます。素敵な空間です。
千葉県我孫子市。手賀沼近く、アビスパには多くの資料、鳥の博物館、水の館等々見所が多かった。
| 名前 |
村山邸(柳宗悦旧邸三樹荘) |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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柳宗悦旧邸三樹荘(村山邸)は、我孫子駅の南東800mほどの千葉県我孫子市緑の天神坂を登った先にあります。「三樹荘(さんじゅそう)」は、民藝運動の創始者・柳宗悦が大正3年(1914年)から大正10年(1921年)まで妻の兼子と暮らした旧邸(居宅跡)です。手賀沼(てがぬま)を望む高台に位置し、敷地内に佇む樹齢400年を超える3本のスタジイ(椎の巨木)が名前の由来となっています。この名は、隣接して別荘を構えていた叔父の嘉納治五郎(かのうじごろう)によって命名されました。この邸宅は、大正期における「白樺派」の芸術家たちの重要な交流拠点となりました。柳の誘いで志賀直哉や武者小路実篤らが我孫子へ移住する契機となったほか、親交の深かったイギリス人陶芸家バーナード・リーチが敷地内に登り窯を築き、作陶活動を行った地としても知られています。また、大正3年(1914年)に浅川伯教がこの地へ持ち込んだ朝鮮白磁の壺との出会いが、後の柳の民藝思想の原点となりました。当時の建物は現存していませんが、歴史の面影を伝える椎の木は我孫子市の景観重要樹木に指定されています。現在は個人宅となっているため敷地内および内部は非公開ですが、隣接する美しい石畳の「天神坂」からその佇まいや往時の雰囲気を偲ぶことができます。天神坂(てんじんざか)は、自然石の石段が緩やかにカーブする情緒豊かな坂道です。大正時代に「北の鎌倉」と称された我孫子の文化的な全盛期を象徴する場所として、千葉県の「ちば文化資産」にも選定されています。この坂を上りきった高台は、かつて多くの文人が集う文学の拠点でした。坂の左手には、民藝運動を提唱した柳宗悦の旧居「三樹荘(さんじゅそう)」があり、右手にはその叔父で柔道の創始者である嘉納治五郎の別荘跡(現 天神山緑地)が位置しています。柳を慕って我孫子へ移り住んだ志賀直哉や武者小路実篤、イギリス人陶芸家のバーナード・リーチといった白樺派の文人たちも、手賀沼への行き来にこの坂を足繁く行き交いました。現在は周囲の木々が成長し、往時のように坂の上から手賀沼を一望することはできませんが、坂を覆うように大きく枝葉を広げるスダジイの大木は景観重要樹木に指定されています。今もなお当時の面影と、文人たちが歩んだ歴史の息吹を静かに伝えている散策スポットです。柳宗悦(やなぎ むねよし:1889〜1961年)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の思想家、美学者です。名もなき職人が作る日常の雑器に美を見出し、それらを「民衆的工芸」、縮めて「民藝(みんげい)」と名付けました。昭和元年(1926年)には、陶芸家の富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司らと共に「日本民藝美術館設立趣意書」を発表し、「民藝運動」を本格的に始動させました。柳は、知識や作為にとらわれず、暮らしの中で実用される道具が持つ、健康的で偽りのない美しさを「用の美」と表現しました。この思想を具現化し、自ら集めた工芸品を広く公開するため、昭和11年(1936年)に東京・駒場に「日本民藝館」を開館、初代館長に就任しました。また、彼の活動は国内に留まらず、朝鮮半島の白磁や伝統工芸、アイヌ民族の手仕事、沖縄の織物など、時のマジョリティが見過ごしていた独自の文化圏の美をいち早く評価し、その保護と紹介に尽力しました。西洋の近代化が生んだ「大量生産・大量消費」へのアンチテーゼとして、手仕事の価値を唱え続けた柳宗悦の思想は、現代のライフスタイルやクラフト文化にも強い影響を与え続けています。