足利七福神巡り、静かな寺院。
心通院の特徴
足利市の観光名所として知られる、立派な仏教寺院です。
曹洞宗の思想に基づくシンプルな装飾が魅力です。
七福神巡りの一環として、寿老人のスタンプが楽しめます。
足利七福神スタンプラリーで年明けに毎年訪れます。寿老人のお堂があります。
駅から遠いです。自転車で来ないと歩きだと相当厳しいと思います。こじんまりきたところなので少し迷うかもしれません。案内板も建物の前にあるだけで、特に道案内もガッツリあるわけではないので。ここからの景色と植物、木々は綺麗なところです。
栃木県 足利市 本城 に境内を構える、心通院、2024 に足利七福神霊場 巡礼にて参拝致しました、足利地方は歴史在る建物が多く所在しており 寺院も見所在ります、寺院対応も大変良い寺院が大半でした、心通院様は参拝、朱印等の対応はしない寺院でスタンプのみで締切って下り、オープンな寺院では無い様です、境内は綺麗でしたが行きずらい寺院に感じました、どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました、山号は 大圓山、院号は 心通院、宗旨 宗派は 曹洞宗、ご本尊は 釈迦牟尼佛、足利七福神霊場 寿老人、開山は 学英宗益 大和尚、開創年は 永禄9年(1566年)足利長尾の五代政長が両親 憲長夫妻菩提のために、西宮町長林寺の七世学英宗益大和尚を開山として創建されました。足利七福神めぐりの社寺の一つでもあり、長寿、富貴、招福の寿老人を祀るお寺です。また、安産子育延命地蔵菩薩、ぼけ除け観音菩薩が祀られ、広く信仰されています。 長尾氏概略は、足利長尾氏は白井長尾氏・総社長尾氏と同じく鎌倉長尾氏から分れました。1465年8代将軍足利義政から長尾景人(山内上杉氏家臣)が足利荘の代官に任命され、1466年足利荘に入りました。ここから足利長尾氏が始まります。景人が岩井山城(勧農城)に入った当時は、山内上杉氏(※1)・扇谷上杉氏(※2)・幕府と古河公方(※3)が対立した享徳の乱の最中でした。景人は山内上杉氏の家臣であることから、山内上杉氏が足利に拠点を築いたことになります。3代景長の時に、足利城を本城としました。5代政長の時には、足利城・館林城の城主になりました。豊臣秀吉による小田原征伐では北条氏に従って迎え、1590年6代顕長は城地を没収されて足利長尾氏は滅びました。足利長尾氏墓所足利長尾氏5代政長が両親の菩提を弔うために1566年(永禄9年)心通院を建立しました。心通院境内南西の丘上に安山岩製の宝筐印塔3基が東向きに並んでいます。長尾憲長夫婦(政長父母)と政長夫婦の墓所があったそうですが、憲長妻の墓は既に無く現存は3基で、左から長政夫人(1578年、天正6年)、憲長(1550年、天文19年)、政長(1569年、永禄12年)の順に並んでいます。歴史的建造物、仏閣、仏像、城、神社巡り、パワースポット、絶景、紅葉、景色撮影、癒し処、栃木県 足利市 観光、温泉、三十三観音巡礼、諸願成就祈願、御朱印集め等好きな方訪れて見て下さい。
閑静で綺麗なお寺でした。御朱印があるかもと伺ったのですが、今はやっていないそうです(2025/3/4)
今回2/7福神めぐり、あとは後日。
凄く 立派です🎵
正月で七福神巡りで行きました。寿老人で地蔵堂内で厨子内に祀られています。石像の七福神像も外にあります。寺は長尾政長の創建で、両親の菩提を弔う為に戦国時代末期です。左手小高い所に墓所が有ります。後方には両崖山が見え、昔は山頂に山城が有りました。(絵では三層の櫓が描かれている)車で行けず歩きで40分~1時間程で、生きづらいです。寺は古い墓石がたくさんあるので、城を守っていた方のかも!寺は曹洞宗の大圓山心通院で、長尾家の菩提寺・(西宮)長林寺関連の寺です。長尾家の墓所や自画像が文化財です。
パワースポット。
足利の観光名所ですね。ハイキングの入口にもなっているのでお客様が多いかもしれません。
| 名前 |
心通院 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0284-41-3202 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 9:00~17:00 |
| HP | |
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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周辺のオススメ
長尾政長が両親を弔うために開基した寺院。山門前に広い駐車場あり。本堂は正面の八角堂。墓地の階段を登った先の山頂に長尾憲長と長尾政長夫妻の墓石が並んでいる。ここからの眺めは極めて良い。藤姓足利氏と横田千之助の墓があるという記事を見たが見つからなかった。開基の長尾政長は足利長尾氏の当主。名は当長とも書く。代々山内上杉氏の家宰を務めた。北条氏に攻められた上杉憲政は当初この長尾政長の元に逃げようとしたが妨げられてできず越後に向かったという。両崖山城のみならず館林城も支配した。上杉謙信の臼井城攻めでは先鋒となるも後に離反、由良成繁と共に越相同盟成立に尽力した。子の政長は早世し成繁の次男顕長が跡継ぎとなった。