明治天皇勅命の蒲生君平碑。
蒲生君平勅旌碑の特徴
明治維新に貢献した蒲生君平の業績を称える碑です。
江戸寛政の三奇人の一人を祀る立派な顕彰碑です。
宇都宮城下の入口に位置する歴史的な史跡です。
蒲生君平勅旌碑( ガモウクンペイチョクセイヒ )畏れ多くも、明治天皇勅旌の石碑で有らせられる。勅とは、帝よりの命令(勅命)。旌とは、表彰するの意。帝の命令により、蒲生君平氏を表彰せよという事。尊王の志厚く、天皇陵や朝廷の政治機構を調査編纂した書物を著すなど、その思想と行動が後の明治維新に多大なる影響を与えたとした事がその理由とされる。天皇陵の調査研究において日本独特の前方後円墳の”前方後円”の名称を提唱したともいわれる。寛政の三奇人と世に云うが、奇人とは変人・狂人・変わり者といった意味では無く、優れて稀なる人物という意味らしい。さて、"蒲生"と聞いてピンと来た人は、なかなかの歴史通であろう。蒲生君平は戦国武将蒲生氏郷の末裔という話がある。蒲生氏郷は文武両道の武将であり、豊臣秀吉の覚えめでたく、天正十八年の奥州仕置ではその能力を買われ、奥州の雄伊達家の抑えとして会津若松に移封となった。氏郷が文禄四年急死すると、子息の秀行がまだ幼く、御家騒動や家臣の意見の相違による混乱も相まって、慶長三年宇都宮に石高削減の上移封された。しかし、秀吉死後の慶長五年、秀行は関ヶ原の戦いで徳川方東軍(西軍上杉景勝勢の牽制の任)について軍功を上げ、石高加増と共に再び会津に移封される。その時、正行(秀行弟)の側室が身重であった為、側室を宇都宮に残した。その側室が生んだ息子の末裔が蒲生君平であるという。これは蒲生君平祖先よりの家伝である。
この碑は、蒲生君平の著書や行いが明治維新に大きな功績があったとして、明治天皇の「君平のひととなりはまことに立派であるから、これを広く天下に表して庶民に知らせるように」との勅命により、藩知事戸田忠友が奉行として、宇都宮の入り口であるこの地に建てたものだそうです。
明治天皇は明治2年に蒲生君平の偉功を称賛し、その偉功を広く世間に知らせる里門旌表 (りもんせいひょう)を時の宇都宮藩知事戸田忠友に命じました。忠友は早速その奉行となり、当時宇都宮宿の入口であった南新町の日光街道沿いに高さ1.3mのこの石碑を建てたとのこと。説明板が劣化して読みにくかったです。
蒲生君平の功を賞した碑。宇都宮の中心街からは離れた場所にある。説明板を読むと宇都宮の入口に碑を建てたとあるからここが当時の宇都宮の入口なのだろう。前の道は旧日光街道。とても綺麗にされているので地元の人から大切にされているのがわかる。
優秀だった方を祀った碑です。
宇都宮城下の入口に設置してある。屋根つきの碑にはびっくりした。明治2年、明治天皇の命により建てられた。尊皇論者であり「山陵志」などの功績により、手厚く守られているのだろう。惜しむらくは、46歳という若さで亡くなったことである。
江戸寛政の三奇人の一人。山稜誌を著し荒廃した天皇陵の修復を説いた。
明治2年(1869)、明治維新に大きく貢献したとして蒲生君平の業績を称えるよう指示された。それを受け、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が建立したもの。
蒲生君平の碑です。
| 名前 |
蒲生君平勅旌碑 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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日光街道の歩き旅の途中に立ち寄りました。江戸時代後期の学者・尊王家である蒲生君平の功績を称え、明治天皇の勅命によって建立された記念碑です。