甲陽軍鑑に名高き剛の者。
笠井肥後守満秀の墓の特徴
笠井肥後守満秀は武田家の旗本で武勇が伝わる史跡です。
甲陽軍鑑に名を刻む剛の者の伝説が残っています。
武田勝頼に馬を譲り、自らは討死した歴史的な場所です。
笠井肥後守満秀は武田勝頼の馬が疲弊したのを知ると自分の馬を勝頼に勧めてその場を立ち退かせ、「我こそは勝頼」と名乗って、織田軍の瀧川源右衛門助義と相打ち、刺し違えて戦死した。
| 名前 |
笠井肥後守満秀の墓 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
笠井肥後守満秀は武田家の旗本で、「甲陽軍鑑」では「信玄公の代からの剛の者」と記されており、退却する勝頼公に馬を譲り自身は討死したとの言い伝えがあります。お墓は龍泉寺の境内ではなくお寺の外の道沿いにあり、小さな小山のようなところで植木に囲まれているため、墓前まではアクセスしにくいです。長篠合戦では多くの将が鉄砲によって討ち取られたイメージがありますが、実際はほとんどの将は撤退中に討死しています。武田勝頼公を逃がすために犠牲になった将が多かったのではないかと思われます。武田勝頼公は才ノ神の本陣から北東方向に落ち延び、猿橋を渡って北に向かっています。猿橋近辺では馬場信春が殿を務めて討死しており、笠井満秀も長篠堰堤の辺りで討死したと言われています。