鎌倉幕府終焉の歴史に触れる。
東勝寺跡の特徴
北条得宗家の終焉の地で、歴史を感じられる場所です。
鎌倉時代に開かれた禅宗のお寺です。
廃寺という運命を辿った数奇な寺院の跡です。
元弘の乱で最期を悟った北条一門が自害を遂げた場所です。この一帯は高台になっており、東側は山、西側には滑川という川に囲まれています。このお寺を創建した人は鎌倉の市街地を一望できる要害を選んで寺を建てたのだろうと思います。現代では建物は残っておらず、フェンスに囲まれている何もない場所ですが、NHK大河ドラマ「太平記」(1991年)で、得宗の北条高時をはじめとする一門が一斉に自害したシーンと重ね合わせたり、元弘の乱の激戦地を順に見たりした上で訪れると、感慨深いものがあります。因みに、高時の遺児である時行は,家来に連れられて信濃(長野県)に落ち延び,東勝寺合戦から約2年後に中先代の乱を起こして鎌倉を奪還します。時行は京都から攻め上がって来た足利尊氏に敗れ,再度鎌倉から脱走しますが,その後は南朝の後醍醐天皇から赦免を受けて,尊氏相手に各地で転戦します。いったんは滅亡した北条氏を半ば再興させた時行は当時の人々を驚かせたようです。時行は足利氏の手にかかって処刑されるまでの間に,各地に子孫を残したと言われており,尾張藩の重臣にして有名な俳人である横井也有や,福井藩の政治顧問を務めた横井小楠は,いずれも時行の子孫を自称しています。
一旦は北条家と運命を共にしながら、復活を迎え高い格を誇るものの廃寺をされるという、実に数奇な運命を辿った寺院です。他の方の言われるように寺院ではなく城塞のような作りをしています。
今はただの原っぱですが、鎌倉幕府終焉の地です。ここで最後の得宗北条高時をはじめ一族が自害しました。
東勝寺(とうしょうじ)は、鎌倉・鶴岡八幡宮の南東山裾に、鎌倉時代に開かれた禅宗のお寺です。鎌倉幕府第三代執権・北条泰時(ほうじょう やすとき)の支援を受けて作られたお寺で、西側に流れる滑川(なめりかわ)の岸を削り落として切り立った崖状にし、東側の急な山地との間を削って平場を作っており、まるで要塞のような構造になっています。北条氏邸宅のすぐ東側に位置していることからも、政権の最高権力者を守ることを目的として建てられた寺だと考えられています。鎌倉時代末期の1333年、新田義貞が鎌倉を攻めた時、執権だった北条高時(たかとき)は東勝寺周辺に逃れましたが、最後には自ら寺に火をかけ、一族と家来もろとも、総勢870人以上がこの地で自害。鎌倉幕府は滅亡しました。この870人余りをまとめて祀った首塚が現在も敷地内に残されており、「高時腹切やぐら」と呼ばれています。その後すぐに寺は再建され、室町時代には関東地方を代表する大規模な寺にまで復興しました。しかし16世紀の後半(室町時代末期から安土桃山時代)には、理由は定かではありませんが、既に廃寺となっていたことがわかっています。東勝寺跡は、北条氏滅亡の地であること、他の寺院には見られない城郭的な機能を持っていることが特異的であり、また禅宗のお寺としての格も高く、建物が建っていたことを示す遺構などの保存状態も良い、ということで、平成10年(1998年)、国の史跡に指定されました。2021.2 現在は、建物が建っていたことを示す柱の跡などが残る敷地の周辺には、文化財保護のために柵が設けられ、一般の人は見学することができません。特別公開の情報も見つけられませんでした。
歴史の話は皆さんがしていますので、私はここからの眺めは鎌倉時代には最高に綺麗だなと思います。今は電柱やビルが建ってしまって面影はありませんがよおく見ると微かに鎌倉中が見渡せたのかなとわかります。
歴史的に貴重な史跡で寺院址なのにも関わらず2020年現在の市長が管理を怠り荒れ放題に荒れている。関東十刹に列せられた大寺院の跡であり、鎌倉幕府最後の得宗だった北条高時公と金沢北条家の将兵を含めた一門が自決したとされる場所。しかし北条高時公の御廟所は十二所側の明王院と瑞泉寺の反対側の谷に存在する事から、自決した後に家臣が首を持ち十二所に逃げたと通説通り考えるよりは、高時公本人と幹部は金沢の青ヶ台城に逃亡を計る途中で十二所で力尽きたと考えた方が自然だろう。
鎌倉幕府終焉の地。14代執権で、北条得宗家最後の当主北条高時自害の地です。1333年、元弘3年、後醍醐天皇が隠岐島を脱出して、伯耆国船上山で倒幕の挙兵し、東国では新田義貞が呼応しました。分倍河原の戦いで新田軍に敗れた幕府軍は鎌倉を突破され、北条高時等一族が当地で最期をむかえました。鎌倉、室町、江戸と三つの幕府のうち、唯一権力側が全滅した例ではないでしょうか。場所は住宅地の行き止まりにあり、訪れる人も少ないので、寂しさが伝わる場所です。鎌倉末期から享徳の乱までの関東の歴史は複雑でとても面白いです。
まったくつわものどもの夢の跡と言った事を感じられ、生憎の台風の後で、寺院の跡や腹切りやぐらには、近付けなかつたが歴史の中に静まっている、もののふ達に合掌した。
フェンスで囲まれて、外から見るだけ。なんか もっと有効利用できると いいな~~
名前 |
東勝寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kamakura-kankou/meisho/04toushoujiato.html |
評価 |
3.5 |
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2023/1/9北条得宗家終焉の地。東勝寺橋のあたりからまさに城郭の雰囲気があり、寺跡入口は虎口としかいいようがない。高時はここで切腹したということだか、なぜ裏山を越えて一旦逃げなかったのだろうか。