斎藤道三と信長の会見跡で歴史を感じる。
聖徳寺跡の特徴
織田信長と斎藤道三が初めて会見した歴史的な場所です。
現在は石碑のみの遺構が静かに佇んでいます。
戦国時代の有名な会合が行われた由緒ある寺跡です。
織田信長と義父斎藤道三の有名な会見エピソードがあった場所。細い道で案外車通りが多いから注意。バス停と立派な石碑がある。聖徳寺自体は移転を繰り返して今は名古屋にある。
跡碑のみで、聖徳寺自体はその後現在の名古屋市八事などに移転しているため、斎藤道三と織田信長の歴史的会談が開かれた場所としては少し寂しい遺構となっている。
織田信長と斎藤道三の会見場所!今は石碑しか残っていません。車で行くと、どこに停めようかなという点、悩ましいところです。駐車場はありません。尾西歴史民俗資料館に停めて、歩くのが現実的でしょうか。ここは大河ドラマ麒麟がくるで紹介されていました。
1553年、織田信長と斎藤道三が初めて面会した聖徳寺跡です。今は寺は残っておらず、碑のみがあります。車を停める場所も無いので、注意が必要です。
いまでは、聖徳寺は2つに分かれ、次の場所に存在します。○名古屋市守山区白山の七宝山聖徳寺○名古屋市天白区八事山の八事山聖徳寺同寺が尾張国中島郡冨田村(現在の愛知県一宮市)にあったころに、【織田信長】と【斎藤道三】が会合したことで有名です。大河ドラマでも、前半のクライマックスとして描がかれるほど、信長の運命を左右するきっかけとなった場所です。かつては大きな寺院だった聖徳寺ですが、現在では一宮市の市バスのバス停になっており、バス停の片隅に石碑と案内看板が建っているのみです。〈看板の写し〉聖徳寺は、はじめ尾張国葉栗郡(後に美濃国羽栗郡)大浦郷(岐阜県羽島市)にあり、洪水や戦火で移転を繰り返したといわれています。寺伝などによると、のち尾張国中島郡苅安賀(一宮市)へ、再び大浦へ戻り、その後ここ中島郡冨田へ移りました。聖徳寺は、戦国時代の永正年間(1504?1521)にこの地に移ったといわれ、天文年間〔1523?1555、天文18(1548)年と天文21(1551)年と天文23(1553)年の3説〕に尾張の織田信長と美濃の斎藤道三が会見した寺として知られています。道三は、信長に娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせており、信長が「大うつけ」かを確かめるために会見を申し入れました。信長は、うわさ通りのうつけ者の姿で聖徳寺にあらわれましたが、正装に改めて会見に臨みました。道三はこの会見で信長の力量を知り、ふたりの同盟は確かなものになりました。信長にとって、歴史の表舞台へ出るきっかけになった大きな出来事だったといえます。また、後年には豊臣秀吉の加賀野井城や竹鼻城攻めの本陣にもなりました。その後、美濃国羽栗郡三屋(岐阜県笠松町)、尾張国春日井郡清須(清須市)名古屋市、東寺町(のち東門前町)名古屋市、松本町(のち富沢町、中区錦)へとを転々とし、移転し、現在は守山区白山の七宝山聖徳寺と天白区八事山の八事山聖徳寺の2ヶ所に分かれています。歴史好き・信長好きにはたまらない場所で、是非とも訪れたいパワースポットだと思います。
今は石碑を残すのみです。
訪れる人も少なく蜘蛛の巣が張ってます。道三公と信長公がここで会談したなんてワクワクします。木曽川左岸遊歩道からもわりと近い住宅街の中にあります。
道路沿いに直にありとても狭い。
小さくて地味だかキレイに整備されている。
名前 |
聖徳寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.138ss.com/spot/detail/19/?msclkid=281ac758bea211ecaa10d67a54275a93 |
評価 |
3.6 |
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この場所は、信長と斎藤道三が会見した寺があった所です。口コミ通りの、ともすると通り過ぎてしまう所にありました。駐車する所がありません。近くの資料館から歩いても750mあります。(資料館には、信長が甲冑を掛けたという松の木が展示してあります)この場所は、昔洪水が度々あったので、寺も移転したりして、信長と道三が会見した聖徳寺の場所が分からないということです。石碑と説明分の書かれているプレートだけでした。でも残されているだけまだ良い方です。地域の方がお手入れされているのですね。ありがとうございます😊