塙保己一の生家、歴史を感じて。
塙保己一旧宅の特徴
江戸時代の盲目の国学者塙保己一の生家として保存されています。
旧宅周辺には、塙保己一公園があり駐車スペースも完備されています。
見学はできませんが、古風な家の美しさに触れることができます。
現在、子孫の方がお住まいになっているので、外観を眺め、思いを馳せるのみです。近隣の方のご厚意で、無料の駐車場があり、ありがたいことです。
国道254号八日市東交差点を八高線側に曲がると案内看板が続くので分かりやすい。旧宅の道路向かいが民間駐車場となっている。すぐ近くに墓所もあり、公園として整備されている。
2024.12現在も子孫の方が住居としてお住まいになられいるため敷地内には入れません。
盲目の国学者、塙保己一の生まれた入母屋造りの茅葺き二階建ての生家で国の史跡に指定されています。現在子孫の方が住んでいますので外から眺めるのみとなります。旧宅の平面図は畑の手前にあるので注意しながら見学しましょう。
塙保己一が生まれ育った家。当時の雰囲気がしっかり残った貴重な建造物です。現在も子孫が住んでるようです。近くにはお墓もあります。
塙保己一先生の旧宅が良く残っています。現在もお住まいで布団が干してありました。あのヘレン・ケラー女史も敬愛した保己一先生です。
人がお住まいですから、家の中の見学はできません。しかし、外から見ても、元気をもらえます。
江戸時代の国学者、塙保己一の生家として国の史跡にも指定される古民家。地元の観光ガイドにも載っていましたのでてっきり見学ができるものと思ったら、普通に住人が住んでいました。苗字を見る限り塙保己一の子孫の方と思われます。現役の民家なのであればそのように但し書きが必要だと思います。
人が住んでいるようなのでじろじろ覗いたら失礼かな?と思った。
| 名前 |
塙保己一旧宅 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP |
https://www.honjo-kanko.jp/sightseeing/hanawahokiichiskyu-taku.html |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
|
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以前、塙保己一記念館へ行った時、近くに保己一の生家があることを知り訪ねてみました。八高線の踏切を渡ったところなどに保己一旧宅を示す看板が出ていたので、場所はすぐに分かりました。塙保己一旧宅の西側にある公園に、塙保己一没後百周年記念碑が建っていますが、碑が建てられた年と保己一の年齢を考えると、生家は280年以上前のものということになりますね。茅葺き二階建ての家ですが、よく管理されていて、とてもそんなに古い建物には見えません。関係各位の維持保存の努力のたまものですね。保己一が幼少の頃遊び、母が病気が治るようにとお参りした龍清寺を先に訪ねましたが、塙保己一旧宅を訪れる際もご住職のご厚意により車を境内に駐めたままとさせて頂きました。 塙保己一旧宅を訪れてみると、東側に地主さんのご厚意で無料で駐められる駐車場がありました(2026.1月現在)。西側の公園には2台しか駐車できず、どうしようかと思っていましたが、有り難いご配慮です。以下は、近くにあった案内板の内容です。塙保己一旧宅昭和十九年十一月十三日 国指定史跡塙保己一は、延享三年(一七四六)五月五日に武蔵国児玉郡保木野村(現本庄市児玉町保木野)に生まれました。七歳にして失明し、十五歳のとき江戸へ出て、当道座に入門し、雨富検校の弟子になりました。賀茂真淵らにも弟子入りし、学問の道にも進み、生来の記憶力の良さに加え、弛まぬ努力の結果、国学者として地位を築きました。国学の研究を進め、寛政五年(一七九三)に幕府に申し出て和学講談所を創立し、安永八年(一七七九)から四十一年間かけて群書類従を編さん・刊行するなど、学問上多大な貢献をし、文政四年(一八二二)には総検校となり、この年の九月十二日に七十六歳で亡くなりました。この旧宅は、保己一が生誕し、幼時を過ごしたもので、入母屋造り、茅葺き二階建てで、向かって左側に田字形の部屋、右側に土間、 厩(現物置)等があり、後世に若干の増築や補修の箇所があるものの、よく当時の姿を残しています。令和二年九月吉日 埼玉県教育委員会 本庄市教育委員会。