小牧・長久手の激闘、二重堀砦跡の歴史。
二重堀砦跡の特徴
二重堀砦跡は、羽柴秀吉軍が築いた重要な砦の跡です。
小牧・長久手の戦いの激しい歴史を感じられる場所です。
天正12年に築かれた最前線の砦で、戦の痕跡が残ります。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの時に、羽柴秀吉軍が築いた最前線の砦跡です。にじゅうぼりではなく「ふたえぼりとりで」と読みます。守将は日根野弘就・高吉兄弟と云われていますので、立派な石碑には「日根野備中守弘就砦跡」、石柱には「日根野織部正藤原朝臣弘就公・高𠮷公戦場碑」と記してありますが、肝心の「小牧・長久手の戦い二重堀砦跡」とはどこにも書いてないので、一見そうとは分からないと思います。
小牧長久手の戦いでの、秀吉方の最前線の砦跡で、家康の小牧山城まで2キロの距離にあり、夜襲にあい激しい戦いがあったそうです、名称通りに二重の堀があったのでしょうか、二重堀砦から岩崎山砦まで2キロ間に高さ4.5メートルの大胸壁を築き、家康方も小牧山から南東側の各砦間を繋ぐ大縄手軍道を築き、互いに攻めてを欠き膠着状態になり、長久手の戦いに繋がりました。現在は住宅街の中にぽつんと碑があるのみで、小牧山も望めませんでした。
2020.03.11訪問秀吉軍が小牧山に対して二重堀の地に砦を設けた。秀吉軍の最前線として、規模は、東西五十五間、南北四十間、土塁の高さは五尺。この砦は、「日根野弘就兄弟」等で守らせたが、天正十二年(1584年)四月の家康軍の逆襲により、多数の死傷者がでた。現在は、個人宅西南隅に接する道路沿いに、「日根野備中守弘就砦跡」と刻まれた碑文が置かれている。同宅の裏にある竹藪の中にあったものを移設したものである。砦の位置は耕地整理のため、当時の跡は無いが二重堀の集落の北端あたりにあったとされる。
二重堀砦跡(ふたえぼりとりであと)は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの折り、秀吉方が築いたとされる砦の跡である。日根野備中守弘就らが布陣した事から、「日根野備中守弘就砦跡」とも呼ばれる。砦の大きさは東西五五間・南北四十間、土塁の高さは五尺あったとされている。小牧山に布陣する徳川方との最前線に位置し、激しい戦いが繰り広げられ、多数の死傷者が出た。なお砦があったと考えられる場所は、耕地整理が行なわれたため、現在遺構などはまったく残されていない。また砦跡として残る祠は、隣接する民家の裏手の竹藪の中にあったものが、移設されたものである。
名前 |
二重堀砦跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
http://www.city.komaki.aichi.jp/admin/soshiki/kyoiku/bunkazai/1_1/2/bunkazai/9163.html |
評価 |
3.8 |
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小牧・長久手の戦いで羽柴軍の砦で、徳川軍の本陣、小牧山に近く激しい戦いがあり、多数の死傷者が出たようだ。砦跡に残る祠などは、移設されたものらしく、砦の痕跡は、あまり残っていないようだ。この砦に布陣されたされる日根野弘就をWebで調べると、鎧兜の日根野頭形や小説の題材とか色々と載っていて興味を惹かれる人も多いと思う。