井上正直の時代と城、鶴舞藩の歴史を感じる。
鶴舞藩庁跡の特徴
出世城最後の城主、井上正直の歴史が感じられる場所です。
明治初期の混乱を思わせる、深い歴史の魅力があります。
鶴舞藩の遺構が残る、興味深い史跡です。
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鶴舞藩かあ・・・明治初期には色々混乱があっただろうなー。
名前 |
鶴舞藩庁跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.2 |
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時代に翻弄された、出世城最後の城主、井上正直。徳川宗家の静岡(駿府)藩立藩に伴い、国替となった浜松藩最後の藩主井上正直は、六万二千石の領地を市原・山辺・埴生・長柄に得、先ず、明治2年(1869年)2月11日に、長南に所在の今関家に仮本営を置き、長南浄徳寺に仮庁舎を置いた。浄徳寺庁舎では、慶応4年(1868年)7月2日から新政府から安房上総知県事に任命された柴山文平が、既に政務を行っていたが、国替えとなった井上家の入封に伴い、それまでの政務の引き継ぎを行って、柴山は大網の宮谷本国寺へ移った。明治2年3月から、井上家は当地鶴舞(桐木原)の開拓を始め、明治3年(1870年)4月に政庁が完成。今関家から当地へ移り、鶴舞藩を興した。明治維新の時代の波濤は激しく、明治2年6月には版籍奉還が発布され、井上家は立藩を欣幸する間もなく新政府の意に従い、長南仮政庁時代に版籍を奉還した。本格的な鶴舞藩の改革は、版籍奉還後から始まったが、その内容は、皇国を説く人民教諭書の出版や、蓄穀(食料備蓄)法の推進(飢饉対策)、仮種痘所の開設、藩政公布、職制・兵制・禄制の改革、学校克明館開講等。更に、翌年明治4年4月、兵制をフランス式に改革。武官は、大尉一名以下軍曹まで27名、幹部常備兵、伍長20名含めた112名、予備兵215名、喇叭手10名の計337名、文官は、勅任1名(知事)、奏任3名(正権大参事)、判任(少参事以下)38名、と整理された。しかし、近代化を成し遂げた鶴舞藩に、廃藩置県の更なる波が押し寄せ、明治4年7月鶴舞県となるも、4ヶ月後、木更津県に統合され消滅した。今は、時代に翻弄され出世したのか判断に迷う元江戸幕府老中井上正直の胸像と、未完成に終わったであろう城普請の名残、そして道路を挟んだ南側には、殆ど目につく事無く揺蕩う水堀のさざ波が残るのみである。