桜舞う御間都彦神社で深い歴史を感じる。
御間都比古神社の特徴
とても桜のきれいな場所で癒やされます*\\(^o^)/*
延喜式内小社としての歴史が感じられる神社です。
5代孝昭天皇にゆかりのある神社で興味深いです。
ご祭神が第5代孝昭天皇なのか長国造の祖なのか議論があります。「国造本紀」によると長国の祖神 観松彦伊侶止命がはじめて佐那県に移住し開拓し第13代成務天皇のときに9世孫の韓世足尼が長国造となったとあります。「阿府志」によると、第5代考昭天皇であると断定しています。時代でいえば、考昭天皇は成務天皇の8代孫であり長国造の祖と同じ時代です。また、佐那県には前から天手力男神がいらしたので韓世足尼の由緒にもずれがあります。結論を言えば同一人物ではないでしょうか?
とても桜のきれいな場所です*\\(^o^)/*
ご祭神が第五代考昭天皇(観松彦香殖稲天皇・みまつひこかえしね)というのは『阿府志』による完全な間違いです。『阿波志』他の文献では長国造の祖・観松彦伊侶止命(みまつひこいろどのみこと)となっています。「国造本紀」によるとご祭神の九世の孫、韓世足尼(からせのすくね)が長国造となったとある。観松彦伊侶止命は事代主神の神裔であり、旧・長国(県南東部)において出雲の神々が祀られるのはこれが理由である。県南東部に出雲系神社が多い事を理由に古事記にいう出雲神話の舞台であるなどという主張は噴飯ものである。
延喜式内小社。長国の祖神、観松彦色止命が初めて佐那に移住し、山野を開き水田を起こし、海浜の地に漁業を教えて産業を開発した。成務天皇(84~190)の時に、観松彦色止命九世の孫、韓背足尼(からせのすくね)が長国造となり、祖神観松彦色止命を長峰の中腹に奉斎し、延喜の制で国幣小社となった。戦国の世に社殿を破壊され、旧跡に形ばかりの小社で祭祀を奉祀した。天保11年(1840)社殿改築、明治21年(1888)神殿建築されたが、神社明細帳から漏れていたため、神職の任命が無く社殿は荒廃した。大正9年(1920)12月宮内省諸陵寮考証官の実地調査が有り、同14年9月境内を拡張し本殿を改築した。更に昭和9年社殿を改築した。
御間都彦神社 5代孝昭天皇 ミマツヒコカエシネノミコト古墳 第5代t紀元前507年t紀元前393年ご祭神は御間都比古。御間都比古色止命」(みまつひこいろとのみこと)で「御間都比古色止命」とは、和風諡号が「観松彦香殖稲尊」である孝昭天皇(こうしょうてんのう)のこと。この場所はこの天皇の御陵とのこと。柿本人麻呂はこの天皇の子孫孝昭天皇(こうしょうてんのう、懿徳天皇5年(紀元前506年)- 孝昭天皇83年8月5日(紀元前393年9月5日))は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第5代天皇(在位:孝昭天皇元年1月9日(紀元前475年2月21日) - 同83年8月5日(紀元前393年9月5日))。和風諡号は観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)・御真津日子訶恵志泥命(『古事記』)御間都比古色止命は新撰姓氏録によれば「長公、大奈牟智神児積羽八重事代主命之後也」とあり大己貴命(おほなむちみこと)の子孫に当たる倭迹々日百襲姫、吉備津彦の曾祖父父孝霊天皇は孝昭天皇の孫。
| 名前 |
御間都比古神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
御間都比古神社(みまつひこじんじゃ)。徳島県名東郡佐那河内村下モノミ石。式内社(小)、旧無格社。【祭神】御間都比古色止命(みまつひこかえしねのみこと)資料によると、創祀年代は不詳。御祭神は社名通り御間都比古色止命で、第5代孝昭天皇のこと。孝昭天皇の和風諡号は、『日本書紀』では「観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)」、『古事記』では「御真津日子訶恵志泥命」。「欠史八代」として、実在が疑われる天皇の一人であり、孝昭天皇の原像を「かえしね(香殖稲/訶恵志泥)」という名の古い神などとする説もある。どちらにしろ、佐那河内の開拓神とされ、第13代成務天皇の頃、その九世孫である韓背足尼が国造となり、長峯の中腹(現在の下中峰)に奉祀したのが始まりとされる。観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)と表記されることもあり、長の国の祖神だという。『新撰姓氏録』には、「長公大奈牟智神児積羽八重事代主命之後也」とある。長の国の事代主命といえば、阿波には現在の勝浦郡勝浦町沼江に生夷神社がある。以降、『延喜式神名帳』にその名が見えるだけで、その前後の由緒は伝わらない。戦国時代に一度破壊され、その後、旧跡に形ばかりの小社を建て、細々と祭祀が続いていたという。その後期の天保11年(1840年)5月、社殿の改築が行われた。明治になり、その初期の公文書に社名が見え、絵図もある。明治21年(1888年)に改築され、大正9年(1920年)12月、宮内省諸陵寮考証官の実地調査があり、大正14年(1925年)9月、境内を拡張したという。昭和9年(1934年)、現在の社殿が建てられた。とあります。