荻生徂徠の歴史に触れる場所。
荻生徂徠勉学の地の特徴
荒廃せずしっかり保存された史跡です。
荻生徂徠の生誕地で歴史を感じられます。
通常の民家に囲まれた静かな立地です。
普通の民家に囲まれた場所です。市道から小さな案内板が無いと、入り込んだ場所にあるのでわかりにくいです。自動車では、入りにくく、駐車場もありません。荻生徂徠さんは、赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府で浪士等の処分を議論し、元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めたそうです。本来、武士ならば斬首のところ、「実行犯全員の切腹」を進言した、一人だそうです。青年期をこの場所で、父親の無念を胸にどのように過ごしたか、思いをはせるために訪れました。史跡に指定されてるようですが、入り口の説明板が無いと、門などもなく、垣根の入り口を入ると、石碑があるので、やっとわかる場所です。垣根に囲まれて、建物の遺構(土台?)の様子が見受けられますが、とても大きな家ではなかったようです。住民の皆さんが、草刈りなどをされているようで、よく手入れされています。石碑の後ろに、コンクリート製のベンチがあったので座ると、暖かい春の日差しを受けて、ウグイスの鳴き声が聞こえる場所です。江戸の下町から、当地に転居せざるを得なかった、荻生青年の心情を付近の住民の皆さんも察していたようで、「他人の思惑に、動かされない」、当時の「正義」を貫いた青年の思春期が当地で育まれたと思うと考え深い場所でもあります。忠臣蔵のある意味で重要な役割を果たした、荻湯徂徠先生、後世の住民の皆さんに守られて、青年期の住居跡が残されているので、ご安心くださいませ。混乱の幕末を経て、近代的になったはずの日本が、再び未知のばい菌で混乱しています。荻湯徂徠先生の江戸時代の人々の方が、よかったのかもしれませんね。
久しぶりに、行って来ました。こんもりとした木々に囲まれ、碑だけが鎮座しています。近所の人達が下草を刈っているんでしょうか、草が綺麗に刈られていました。荻生徂徠は、青春(14歳から26歳頃まで)の一時期、ここ本納の母の実家で過ごしたそうです。千葉県の指定史跡にもなっています。一度立ち寄り、江戸時代の荻生徂徠に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
おからのお金を払わないから豆腐屋にお店を送った❗
碑以外に何もなく、しかも荒れ放題。さらに案内標識板もほとんどなくて、なかなか行きづらく、車で行くのは、かなり困難です。荻生徂徠つながりで、龍教寺(母のお墓がある)に停めさせてもらって、歩くのが正解かも。
古いが保存はしっかり。
■荻生徂徠(おぎゅうそらい 寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日)は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者である。 江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎・林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷であるここ上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移った茂原市・看板,。 ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。元禄5年(1692年)、父の赦免で、共に江戸に戻り、ここでも学問に専念した。芝増上寺の近くに塾を開いたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられたといわれている。
名前 |
荻生徂徠勉学の地 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p411-021.html |
評価 |
3.2 |
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荻生徂徠 (おぎゅうそらい)中々難しい読み方ですね。