名前 |
與田神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://kagawakenjinjacho.or.jp/shrine/%E8%88%87%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE/ |
評価 |
3.1 |
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以下、坂口友太郎『白鳥町風土記』(1998年)から引用です。ーーーーーーーーーーp.259〜260与田神社 与田山字森兼380通称 王子さん 元村社祭神 大倭根子日子国玖琉[おおやまとねこひこくにくる]命(孝元天皇)由緒 『若一王子大権現縁起』(後出)によれば、いつ勧請されたか不明であるが、熊野から神が飛来したので祀ったとある。その後、行基菩薩が北山下に自作の観音像を観音堂に安置。次に弘法大師が修造して王子坊と改め、その東に弥陀金像を祀る東陽坊を建て、西には自ら作る泥塑の薬師を祀って薬師坊と号した。又、慈覚大師が来て阿弥陀如来を作って本尊としたという。下って元弘中、大塔宮が暫時ここに潜居され、次に応永の頃、赤松顕則が来て宮が奉納せられた大般若経を持ち帰る代りに、600巻の経巻を奉納した。なお、鎌倉時代のものとみられる懸仏が秘蔵されていたことから推測すると、これ以前の創祀であることは間違いなく、町内で一、二を争う古社ということができる。ついで享保4年、渡瀬正庸が願主となって再建せられた。この頃、大般若経のうち、欠けていた50巻が奉納され、若一王子大権現縁起も製作されたようである。又、明治33年にも社殿の再建が行なわれた。『若一王子大権現縁起』(若王寺蔵)[略]p.262『香川県神社誌』、「村社、与田山字森兼にあり、祭神大倭根子日子国玖琉命。由緒、維新までは王子権現と称されていて、紀州熊野より勧請せられしものという。伝うる所によれば、元弘の昔、大塔宮護良親王、般若寺より難を避けて、その臣乗次、近房、近守、行成、森兼等と共に、紀伊国粟島より、ひそかに当地に移り給えり。里人に佐伯季国なる者あり、親王を奉じて当社に隠し奉り、次で虎丸城を築きて、親王を城中に奉ぜり。親王般若寺にて、大般若経の櫃中に隠れ、難を免がれ給いしにより、大般若経を書写して、当社に納め給えり。応永年間、赤松顕則当社に来り之を見て、虚空蔵院の僧増吽に謀り、之を播州法華山に移し、別に増吽等に嘱して、大般若経六百を書写して、之を当社に納むといえり。而して親王御筆の経は、今尚法華山にありという。明治2年郷名により、社号を与田神社と改称、同4年村社に列せられ、大正11年9月23日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。[略]p.262『大川郡誌』、「与田神社、村社、社掌中山䶀象、当社勧請年月詳ならず、明治維新以前は、若一王子大権現と称し、八将神を以て祭神とし、社僧王子坊専ら祭祀を掌れり。然るに明治元辰年十二月、神仏混淆廃止の達旨によりて、社名を与田神社と改称し、祭神八将神を改めて孝元天皇を奉斎す。(後略)」