前橋城址の土塁を散策!
前橋城跡の特徴
天下無双のかぶき者、前田慶次が愛馬松風と出会った厩橋城の跡地です。
巨大な土塁が再現され、城跡の面影が随所に残っています。
散策しながら見晴らしを楽しむことができる場所として最適です。
かつて徳川家康が「関東の華」とまで言った前橋城は、利根川を天然の要害とした城でしたが、暴れ川として知られる利根川によって、度重なる氾濫と洪水による浸食に悩まされた城でした。現在は城の遺構は僅かしか残っておらず、群馬県庁の北側と県庁前通り沿いの狭い一角に土塁や石垣が少し見られる程度で、見どころは少ないです。前橋城の歴史は、前橋駅北口駅前にある「前橋AQERU」の中にある「ヒストリア前橋」のシアターのダイナミックな映像で紹介されているので、それを見るのをお勧めします。前橋城の起源は諸説あるようですが、その歴史は15世紀末までさかのぼります。最初は石倉城というお城だったのが、1534年の利根川氾濫によって流されてしまい、石倉城の無事であった三ノ丸を基にして再築された城が、厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれるようになったと言われています。厩橋城は、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の関東進出の拠点となり、その後北条高広や、滝川一益、北条氏直など、様々な人物が城主となります。江戸時代に入ると、徳川家の重臣であった酒井重忠が入城することとなり、この際に家康は重忠に、「なんじに関東の華をとらせる。」と言ったと伝えられています。酒井重忠は城の大改修を行い近世城郭へと変貌させ、城には3層3階の天守も造営されました。17世紀中頃に「厩橋」の地は「前橋」と名を改め、城も「前橋城」と呼ばれるようになりました。しかし、17世紀後半になると利根川の洪水により城の崩壊が進み、18世紀初頭には、本丸の移転を余儀なくされてしまいます。18世紀には酒井氏が転封となり、親藩である松平朝矩が引き継ぎました。度重なる利根川による被害に、前橋城は修復を重ねますが、松平家の川越への転封を契機に、1769年に三重櫓の天守閣、大手門などが取り壊され、廃城となってしまいました。そして、幕末の横浜開港に伴う生糸貿易により活況を呈した前橋に、前橋城再築の案が持ち上がります。当時江戸幕府は既存の城の増改築すらほとんど認められない中、万が一江戸が外国によって攻撃された時の避難路として利根川を利用でき、申し出ている前橋城を、江戸城に変わる要塞とする案が幕府内で浮上し、幕府がこれを許可したことで、廃城から100年の時を超えて、1863年に築城が許可され強靭な城として再び復活しました。ところが城の完成からわずか4年後、明治維新による廃藩置県で、前橋城は真っ先に取り壊しが決定し、莫大な費用をかけて作られた前橋城は、再び姿を消してしまったという歴史があります。
公園⛲️や庁舎🏢になってる本丸土塁♬車橋門跡♪砲台跡♪などが見れた数少ないけど遺構探しが散歩がてらに楽しめるトコ..人によっては🤭
前橋城はかつて「厩橋城」と呼ばれ、長野氏が築いたとされる戦国期の城で、後に上杉謙信や北条氏、滝川一益らが支配した要衝です。江戸時代初期に酒井重忠が大改修を施し、三層三階の天守を備える近世城郭に整備されました。藩政時代には利根川の氾濫により度重なる被害を受けて一時廃城となりますが、1863年に再築され、幕末の要塞的城郭として再生。しかし、明治維新による廃藩置県で再び破却されました。現在は群馬県庁・議会・裁判所などが城跡に建てられています。
【前橋城址之碑】この石碑は旧前橋藩にゆかりのある人々などにより、明治四一(一九〇八)年三月に建てられました。碑文には前橋城の由来と、碑の建設経過が記されています。碑の標題は城主の子孫である松平直之氏が筆をとり、本文は東京帝国大学の国史学の教授である重野安澤氏が執筆して、書家の日下部東作氏が書きました。かたわらの副碑によれば、石碑建立には五名の建設委員があたり、県内外の八百名を越える人々の寄付があったことが知られます。碑の建つこの地は、江戸時代末期の慶応三(一八六七)年に整備された「再築前橋城」の、本丸を囲む土塁の北東部上にあたります。碑文は次のとおりであり、その大意は北側のパネルを参考にしてください。なお、碑文の文字には異体字が多いため、適宜現行の字に改めています。【前橋城址碑の解説】前橋は古くは厩橋と称し、東山道の群馬の駅が近く、それが地名の起こりであるという。厩橋城が築かれたのは、十五世紀のこと、初代城主は箕輪城主長野氏の一族前橋長野左衛門尉方業(法号固山宗賢)とされている。以後長野氏らの展橋界が拠っていたが、天文二十一年(一五五二)小田原北条氏の勢力が上州に及び、永禄三年(1五六〇)には、長尾景虎(上杉謙倍)が橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。このあと上杉氏の家臣北条高広が厩橋城を守っていたが、その戦略的な要害が群雄争覇の理由とされ、上杉、北条、武田氏の間に攻防がくりかえされた。天正十年(一五八二)武田勝頼が敗死すると、織田倍長の部将滝川一益が橋城に入り、関東管領を称した。しかし長の急死によって、一番は本国に帰り、城は比氏の手中に帰した。ついには、天正十八年(一五九〇)四月、小田原討伐軍の浅野長政に攻められて落城した。同八月関東に入国した徳川家康は、重臣平岩瀬吉を構城三万三千石に封した。親部は慶長六年(一六〇一)甲府に移り、代わって川越から酒井重忠が入封、以後九代の間、酒井氏の藩政が続いた。四代忠清は大老となり、下馬将軍の名で知られる。酒井氏治世時代の前橋城は城城十五万平に及び、西に利根川の断崖を背とし、南東に延びる土塁と夢をめぐらしていた。本丸は西端にあっていここに三層の天守閣があった。慶安二年(一六四九)五代忠挙の時、城下町は最も栄え公称を前橋と改めたが、その晩年は財政に苦しみ、寛延二年(一七四九)忠米の時、姫路に転封となった。代わって姫路から松平朝矩が入封したが、酒井氏時代以降難題であった利根川の激流による城郭の破壊が進み、その修復に苦しんだ松平氏は、幕府に願って明和四年(一七六七)川越に移城した。以後、前橋城は廃され、領地は約百年の間、川越藩の分領として陣屋支配を受けることとなった。城主を失った城下町は衰え、領民は再三にわたって帰城を請願したが、幕末の城主直候ならびに直克の決断により、文久三年(一八六三)十二月、幕府から再築の許可を得、慶応三年(一八六七)帰城が実現した。この背景には、前橋領の特産生糸貿易の活況に寄せる藩政再建の願いと、生糸商人ら領民の莫大な献金、労力奉仕があった。しかしずか半年で大政奉還となった。廃藩置県後、城郭は廃されたが御殿は残されて県庁舎となり、前橋の現在の繁栄をみている。陣文は、藩主松平蔵促ならびに蔵売の再築の功を偲んでこの碑を建てるとある。前橋城址碑の位置は、旧城三の丸東南隅の土居上に当たる。神の題額は、党の長子校平菌で氏、文は、修史局編修官のちの東京大学教授、貴族院議員になった重野郡氏である。書の日下部東に氏は鳴様と号し、明治書道界の重鎮であった。
目立つものは残っていないけれど。群馬は利根川の氾濫などもあって治め難い土地だっと。そんな記録に返って想像力が掻き立てられる。そんな所です。
遺構はほとんど残ってない、との事だったから、全く期待せず行きましたけど、立派な土塁があって、ちょっと感心しました。県庁の上から見下ろすとお城の範囲が想像出来ます。お城の説明がもっとあちこちにあればいいとは思いました。
天下無双のかぶき者、前田慶次が愛馬松風と出会い我が物にした場所、厩橋城。遺構としては土塁が残っており、その上には松の木が植わっていた。利根川沿いにあることから天然の要害でもあるが、その利根川の激流により城が破壊された事もあるという。まさにあばれ馬のごとき河川。本丸御殿の跡地に県庁がそびえっており、複雑な気分ではあるものの、戦国後期以降は城は政庁としての役割が強くなっていく傾向があったことから、ある意味同じ役割のものが立っていることには納得できる。県庁じゃなくて遊園地とか商業ビルとかじゃなくて本当に良かったです。
城址として見るべき所は警察本庁舎北東の前橋城跡の碑と土塁くらい。警察本庁舎南側に前橋城復元図、県庁西側の虎姫観音堂に天守閣復元図あり。
前橋城跡前橋城は古くは厩橋城(うまやばしじょう)呼ばれ、関東七名城のひとつに数えられています。江戸時代中期に起きた洪水の被害で一旦は廃城となり川越藩の飛び地になりましたが、幕末に再築しました。これは江戸幕府が最後に出した築城許可といわれています。現在は遺構はほとんど残っていませんが、本丸土塁(写真⑤⑥)が現存しています。本丸跡地には群馬県庁本庁舎(写真①②)が置かれ、二の丸跡地には前橋市役所、三の丸跡地は前橋地方裁判所がある官公庁街となり、三の丸外郭が明治38年(1905年)前橋公園として整備されています。令和3年発掘調査により大手門の石垣が発見されました。【歴史】天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で豊臣方により攻め落とされ、その後関東入封した徳川家康の家臣平岩親吉が厩橋城3万3千石に入城。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後に甲府に転封した親吉に代わり酒井重忠が入城。重忠の時代に大改修を行い3層3階の天守が造営されました。しかし前橋城は利根川の浸食を受け続け、明和6年(1769年)幕府の許可を得て前橋城を放棄し川越城に移り、川越藩の分領として陣屋支配となりました。文久3年(1863年)川越藩主松平直克は前橋城の再築をはじめ前橋城は竣工、慶応3年(1867年)前橋藩が再興した。しかし、再建から半年後に大政奉還し廃城となりました。#お城 #城 #城跡 #城巡り #城好き#城好きな人と繋がりたい#群馬県 #群馬県の城 #群馬県の城跡#前橋市 #前橋城 #厩橋城。
| 名前 |
前橋城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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『前橋城(厩橋城)の土塁』は、現在の城跡にわずかに残る貴重な遺構です。主な残存箇所は、群馬県庁(本丸跡)の北側から西側にかけてです。特に県庁北側にある土塁は、高さや幅に圧倒的な迫力があり、再築前橋城の面影を今に伝えています。前橋城は、江戸幕府が最後に築城許可を出した再築前橋城(慶応3年/1867年完成)の遺構であり、銃や大砲による戦いを想定した近代的な城郭でした。この土塁は、その特徴を示す数少ない構造物の一つです。また、三ノ丸外郭にあたる前橋公園にも一部の土塁が残っています。なお、土塁の西側は高浜公園として整備されていますが、私が訪問した日は全く整備されていない荒れ地と化していました。