心響く説法、国定忠治のお墓。
善應寺の特徴
駐車場が広々としていて、訪れやすい環境が整っています。
お坊さんの説法が、心に響く深い内容で感動を与えます。
上州の侠客・国定忠治のお墓があり、歴史的な価値があります。
【施無畏山鏡泉院善應寺由緒】江戸時代初期、宗存阿開梨という高僧がいた。衆生済度の念厚く、毎朝庭の梅樹に香を焚き日論を奉拝していた。数年が経ったある日の晩、眠っていた宗存は、夢の中で海の前に立つ観音のお姿を見た。翌朝目覚めて庭を見ると、海樹の一部が仏像の形を成しており、それは夢に現れた観音の姿であった。宗存はこの観音像を自の壇上に安置し本尊とした。やがて、江戸の東叡山定永寺に参上した宗存は、質主の守澄法親王(後水尾天皇皇子)に事の火第を報告申し上げた。洗親王は奇端であるとして大変感銘を受けられ、寺院の創建をお許しになられた。そして花無県山鏡泉院善慮寺という称号と観音三十三身像を下賜され、寛永寺の直末に対せられたのである。開山当初、当山は伊勢崎陣屋東門前に所在し、元禄年間には京都より春日作の阿弥陀如来座像を勧請して本尊とした。その際、親音保は新楽の親音堂に移されたという。享保三年には伊勢崎大火によって全焼し、温主より現在地へ移転を命じられた。当時は旧跡地を善慮寺古昼敷と呼び、現在地を新寺と呼称したと伝えられる。文政日年にも火災で焼失し、以後は再び聖観音を本尊とした。明治維新後は、比叡山延暦寺の道末に列せられ、昭和十年に本堂を再建、しかし、昭和二十年八月十五日未明の伊勢崎空襲によって全焼。戦後復興を進め、平成十九年に本堂及び客殿を再建した。平成二十年には当山開基の大島に報いる為、守澄法親王御彩を造描し、日光山輪王寺八十五世小暮道構大僧正によって開眼が営まれた。令和元年には寺檀一致協同して御影供養の講合である守澄法親王講を創始した。
創建は江戸初期で、伊勢崎陣屋の東門の前に建立され、後の火災で、現在地に移転、さらに太平洋戦争の空襲で全焼の憂き目を見るが、最近復興がめざましく、本堂の前に新造された平唐門が異彩を放っている。国定忠治の権妻(妾)のお徳さんが、忠治の腕を葬ったと言われる墓石は、南側に広がる墓地の入り口の右側に聳えている大木の下にある。表側には「遊道花楽居士」と、裏側は「念仏百万遍供養」と刻まれているらしいが、風化がつ進み、やっとこさっとこ判読出来る。🅿️あり。2026/1/1
駐車場が広々として、住職もフレンドリーです。
伊勢崎駅南口を降りると、右手側に大きな本堂が見える。駅前の再開発のためかロープで仕切られていた。国定忠治の墓(お妾さんの?)と訪ねたが、確信が持てなかった。案内板でもあれば助かる。
前の道路が大きく変わりますね。
母親の両親の墓有り、目の前に母親の実家荒砥屋焼きまんじゅう、団子を作っていた昔は叔父がボクシングの練習場としても提供してくれていた又自分達の遊び場でも有った‼️
お坊さんの説法が、心に響きました。
比較的新しいお堂で立派な造りです。各偉人のお墓がありますが場所が分かりづらいかと思います。
こちらのお寺は、上州の侠客、国定忠治のお墓があることで知られていますが、戦前までは忠治の片腕も保存されていたそうです。忠治が捕縛されて処刑されたあと、愛人であったお徳は、刑場に打ち捨てられた遺体から、片腕だけを密かに盗み出しました。これを埋葬してお墓を建ててやりたいと思いましたが、刑死した罪人なので大っぴらにはいきません。そこで五両の金を添え、こちらのお寺に頼み込んだのだそうです。墓標には名前を記すこともできず「遊道花楽居士」とだけ刻まれています。まことに侠客らしい、小粋な戒名だと思います。戦災で失われる以前には、時代小説作家である長谷川伸や尾崎 士郎などが、見学に訪れたこともあるとか(*^^*)
| 名前 |
善應寺 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0270-25-0091 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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伊勢崎駅のすぐ近くにある寺院。山門や塀が真新しい。駅前区画整理のために改築したのであろうか。駐車場に隣接する場所に国定忠治の墓あり。忠治の妾のお徳が処刑場から忠治の腕を盗み出してこの寺に預けたという。説明板など特に無し。