上杉憲寛ゆかりの宮原。
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古河公方足利晴氏の子、賢寿王丸憲寛は、山内上杉憲房の養子となり上杉憲寛として関東管領となったが、山内上杉家は血の繋がりのない憲寛を軽んじたため、享禄4年(1531)引退した。その後は本姓に復し足利左馬頭晴直と名乗り、上総国市原郡宮原の現在明照院がある地に退隠したという。
名前 |
宮原御所跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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宮原御所宮原御所は、養老川下流域南岸の平地にある。現在は、御所山薬王寺明照院の地である。周囲は土塁の保存状態も良く、往時をしのぶことができる。『日本地理志料』には、「宮原に御所山があり、その『薬王寺院』には、天文年間に足利義舜がこの地に居住し、宮原御所と称した」とある。義舜の死後、館を壊して寺を造り、氏の冥福を祈ったとされる。その後裔は宮原氏を称し、江戸幕府に仕え、高家に列せられたとある。また、『関八州古戦録』には、享禄四年(一五三一)、上杉憲寛は管領職を子の憲政に譲り、みずからは里見刑部大輔義尭に合体して、上総国市原郡宮原の地に退隠し、足利佐馬頭晴直と改め、治乱を避けてこの地で余生を送ったという。日本城郭大系6 より引用高家とは、江戸幕府の政府機構での役職であり、この職に就く事が出来る家格の旗本を示す。宮原家は、名門足利家一門である為、高家に列せられた。また、下野国喜連川藩の藩主喜連川氏が、鎌倉公方家の系統であった小弓公方足利義明の末裔である関係から、江戸時代を通して宮原家との縁戚関係を保ち、今も尚その血脈は存続しているという。