静かな明照院で歴史を感じる。
宮原御所跡の特徴
静かに歴史が息づく、時が流れる場所です。
明照院が佇む地は、古河公方の居館跡です。
養老川近くの平地に位置した史跡です。
五井駅から小湊鉄道で上総村上駅で下車するか、小湊鉄道バスで国分寺台行きに乗り国分寺台南郵便局で下車して歩く。それぞれ徒歩50分から1時間程度で到着する。便数が多いバスで行く方が便利だ。「宮原御所」と呼ぶ由来は、1500年代前半に足利氏から山内上杉家の養子となり関東管領となった上杉憲寛(後に足利晴直と改名)が、政争に敗れ、源氏の傍流である上総武田氏を頼ってここに隠棲したことによる。「御所」と言うと大規模な場所を想像してしまいがちだが、現況は、台地の縁辺の一部であるお寺の敷地=100m×40mくらいが主要部で、その北西部に土塁が残るのみだ(周辺の民家の敷地までは確認していない)。東側の台地の下に水堀状の溜池があるが、近くの湧水を貯めているようだ。堀跡かどうかは分からない。台地上の寺と水堀?まで含めると曲輪としてちょうど良い広さだけれど標高差があることが気になる。南側に高さのある台地を控えるが、この場所は決して防御の適地と思えない(標高も低い)。足利晴直を城の中に囲うのではなく、高家をもてなすために、湧水に恵まれた肥沃な土地の一角を用意したと考えるべきか?武田氏の各拠点からほどほど遠いのも、当時の微妙な政治的な背景を映したものなのかもしれない。
静かに時が流れている場所です。
明照院という寺院が建っている場所は古河公方足利高基の4男、晴直の居館があったそうです。明照院の周囲は小規模ながら土塁が良く残っています。晴直は山内上杉氏憲房の養子となり、寛憲と名乗り憲房没後一時的に山内上杉氏と関東管領を継承するものの、憲房の実子である憲政を擁立する者がいて内紛となったため、職を辞してこの地で隠棲したと云います。
宮原御所宮原御所は、養老川下流域南岸の平地にある。現在は、御所山薬王寺明照院の地である。周囲は土塁の保存状態も良く、往時をしのぶことができる。『日本地理志料』には、「宮原に御所山があり、その『薬王寺院』には、天文年間に足利義舜がこの地に居住し、宮原御所と称した」とある。義舜の死後、館を壊して寺を造り、氏の冥福を祈ったとされる。その後裔は宮原氏を称し、江戸幕府に仕え、高家に列せられたとある。また、『関八州古戦録』には、享禄四年(一五三一)、上杉憲寛は管領職を子の憲政に譲り、みずからは里見刑部大輔義尭に合体して、上総国市原郡宮原の地に退隠し、足利佐馬頭晴直と改め、治乱を避けてこの地で余生を送ったという。日本城郭大系6 より引用高家とは、江戸幕府の政府機構での役職であり、この職に就く事が出来る家格の旗本を示す。宮原家は、名門足利家一門である為、高家に列せられた。また、下野国喜連川藩の藩主喜連川氏が、鎌倉公方家の系統であった小弓公方足利義明の末裔である関係から、江戸時代を通して宮原家との縁戚関係を保ち、今も尚その血脈は存続しているという。
古河公方足利晴氏の子、賢寿王丸憲寛は、山内上杉憲房の養子となり上杉憲寛として関東管領となったが、山内上杉家は血の繋がりのない憲寛を軽んじたため、享禄4年(1531)引退した。その後は本姓に復し足利左馬頭晴直と名乗り、上総国市原郡宮原の現在明照院がある地に退隠したという。
| 名前 |
宮原御所跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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すれ違いできない細い路地で駐車場もありません。その当時のものでは無いと思われるが、古い門が残っている。裏手はちょっとした段差で土塁のよう感じ。