連なる鳥居と神々の歴史。
廣野大神社の特徴
廣野大神社は759年または994年の創建です。
参道を越えた二の鳥居が印象的な神社です。
社殿左側には五基の石祠が並んでいます。
創建は759年または994年。「廣野」は神流川氾濫原の風景からとか。ここに居ると実感が無いですが、確かに神流川近くです。
廣野大神社(ひろのだいじんじゃ)主祭神 天穂日命 倉稲魂命 誉田別命配祀神 駒形神 菅原道真公社殿左側に並ぶ五基の石祠は左から野原神社・太元神社・産泰神社・倭文神社・若宮八幡神社です。その並びの三社は八坂神社・琴平神社・摩多羅神社。社殿左に並んでいるのは今宮神社、社殿右に並んでいるのは稲荷神社です。その右に並んでいる四基の石祠は左から住吉神社・伊勢神社・千勝神社・戸隠神社。社殿後方にある奥宮は神流川神社です。由緒当社の鎮座する肥土の地は、武蔵・上野の国境となっている神流川の流れが変わったために、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになりました。上野国に属していた時は、緑野郡土師郷の内でした。土師郷の名が示す通り、この地には土師部が居住した所で、かつて地続きであった神流川対岸の藤岡市本郷には土師神社が祀られ、神流川沿いには多くの古墳群があり、古代の土師部の活躍が窺えます。社宝として、上野国司が作成した国帳で永仁六年(1298)に改写された「上野国神名帳」一巻が蔵されていて、これに載る緑野郡十七座の内「従三位廣野明神」が当社に比定されています。創建については諸説あり、「児玉郡誌」には「淳仁天皇の御宇、天平宝字三年(759)上野国司の創立なりと云ふ」と記されていますが、「明細帳」には「一条天皇御宇正暦五甲午年(994)創立」とあります。主祭神の天穂日命は土師連の祖とされることから、土師部が創祀したと考えられます。ただし、天正十年(1582)関東管領滝川一益と小田原北条氏との神流川合戦の際、兵火を被り、社殿や古記録を焼失したため、明確な資料はありません。その後の社殿造営については、焼失後数年を経た文禄元年壬辰(1592)に「従三位廣野明神社再建」の棟札が残っています。本殿は三間社流造りで、内陣にはそれぞれに幣束と神鏡が奉安され、三体の古い木像も奉安されています。この木像は、十二年に一度の子年の例祭に合わせて御開帳が行われています。社号は、「上野国神名帳」にあるように、「廣野明神」と記され、神流川の自然堤防上の当地と、周囲に広がる氾濫原の風景から付けられましたが、化政期(1804~1830)には「風土記稿」に見られる「八幡天神駒形明神合社」と号し、更に「郡村誌」には「神流川神社」と記載されています。社殿の背後に「奥宮」と呼ばれる神流川神社(祭神天穂日命)を祀っていることを考ると、三間社流造りの本殿は八幡天神駒形明神合社として造営し、廣野神社を奥宮とした経緯が考えられます。それが、明治三十九年(1906)の郷社昇格に際し、神名帳に載る社号に戻したものと思われます。当社の祀職については、江戸期は真言宗神流山不動院善明寺が別当を務めていました。善明寺は慶長四年(1599)僧広順坊の開山と伝えられています。明治の神仏分離により善明寺の管理を離れ、土師真守が神職となり、以来、真吾・秀夫と継いで、現在に至っています。(「境内案内板」及び「関東の神社めぐりプチ神楽殿」より)
旧郷社。御祭神:天穂日命(あめのほひ)、倉稲魂命(うかのたま)、誉田別命(ほむたわけ)。創建:年代不詳(平安時代以前相当)。資料によると、創建には諸説あり、『児玉郡誌』には天平宝字三年(759年)とあり、『明細帳』には一条天皇御字正暦五甲午年(994年)創立とある。当社の鎮座する肥土の地は、武蔵・上野の国境となっている神流川の流れが変わったために、元禄十四年(1701年)から武蔵国に属するようになった。上野国に属していた時は、緑野郡土師郷の内であった。土師郷の名が示す通り、この地には土師部が居住した所で、御祭神の天穂日命は土師連の祖とされることから、当社も土師部が創祀したと考えられている。後に「八幡天神駒形明神合社」となり、「神流川神社」とも呼ばれ、明治39年神名帳に載る社号に戻したものと思われる。「廣野明神」の広野とは、神流川の自然堤防上の当地と、周囲に広がる氾濫原の風景から付けられた社号だそうだ。とあります。一の鳥居から二の鳥居と長い参道があり、また社殿の背後にも、ひっそりと佇む鳥居と奥宮があり、広いというか奥深い神社でした。
鳥居が連なってます。
廣野大神社(ひろのだいじんじゃ)。神川町肥土。旧郷社。上野国神名帳 緑埜郡:廣野明神。御祭神:天穂日命(あめのほひ)、倉稲魂命(うかのたま)、誉田別命(ほむたわけ)。創建:年代不詳(平安時代以前相当)。資料によると、創建には諸説あり、『児玉郡誌』には天平宝字三年(759年)とあり、『明細帳』には一条天皇御字正暦五甲午年(994年)創立とある。当社の鎮座する肥土の地は、武蔵・上野の国境となっている神流川の流れが変わったために、元禄十四年(1701年)から武蔵国に属するようになった。上野国に属していた時は、緑野郡土師郷の内であった。土師郷の名が示す通り、この地には土師部が居住した所で、御祭神の天穂日命は土師連の祖とされることから、当社も土師部が創祀したと考えられている。(神流川を隔てたすぐ反対側の藤岡市側には土師神社がある)後に「八幡天神駒形明神合社」となり、「神流川神社」とも呼ばれ、明治39年神名帳に載る社号に戻したものと思われる。「廣野明神」の広野とは、神流川の自然堤防上の当地と、周囲に広がる氾濫原の風景から付けられた社号だそうだ。とあります。一の鳥居から二の鳥居と長い参道があり、また社殿の背後にも、ひっそりと佇む鳥居と奥宮があり、広いというか奥深い神社でした。参考として、児玉郡肥土(神川町)の高橋家には、80代出雲国造、出雲大社宮司であった千家尊福氏(後に埼玉県知事)が従五位の頃(明治5~13年春)に書いた祖霊祭用の軸が残る。同家では名主だった第8代の周兵衛(1834~1908)が明治に入り、天穂日命を祭る廣野大神社の神職になった。高橋家文書の中に、尊福が17年8月8日付で周兵衛に宛てた、大社教への附属を認める書状がある。同家が祭る出雲神社に尊福揮毫の扁額が掛かり、内殿中央の扉に大社教の教紋が浮き彫られている所以だ。高橋家文書には、尊福が第9代周平(1858~1900年)に宛てた書簡も複数残る。周平は17年から県議を3期務めた。28年秋から30年春の3期目は、尊福の知事時代と重なる。県会には出雲信仰で結ばれた有力な支援者もいたのだ。とあります。
鳥居が連なってます廣野大神社(埼玉県児玉郡神川町肥土380)は、古代から続く神社で、地域の歴史や信仰に深く根付いています。創建時期ははっきりしていませんが、神社の名からも分かるように、広大な野原の守護神として、また地域の農業の発展や豊作を祈る神として崇拝されてきました。地元では、五穀豊穣や家内安全、厄除けの神として信仰されており、長い年月をかけて地域に根ざした信仰の中心となっています。神社の成り立ちには、古代からこの地域を守護してきた神々や土地にまつわる伝説が関係しており、廣野大神社は地域の守り神として長く崇敬されてきました。境内には古い木々が立ち並び、自然の中で厳かさと静けさを感じることができます。神社周辺の田園風景と相まって、訪れる人々に心安らぐ空間を提供しています。
一の鳥居から長い参道と小橋を越えて二の鳥居となる。拝殿の瓦の神紋が梅であったので菅原道真公かと思ったが由緒書きのご祭神には名がない。境内末社も多く社があるだけでも、拝殿に向かって右がお稲荷さん、左が今宮神社と他3社、また拝殿の裏奥にもひっそりと佇む鳥居と祠があり神秘的である車で行くなら境内の横に入る道があるのでそちらからとなる。一の鳥居から入ると普通の車では途中の小橋は越えられない。
旧郷社格。神流川の流れと共にある歴史を持つ神社。
| 名前 |
廣野大神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP | |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
|
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寺社には明るくないのですが、境内の面積に対して祠がとても多く、何かを祀るための神社ということが一般人からでも感じられました。特に、境内の左側にある3つ並んだ祠の1番奥には、檻の中に縦長の石が安置されていて、その昔何かあったのだろうな…と想像をかき立てられます。その祠の写真も撮ろうかと思ったのですが、公の場に投稿すると不快に感じる方がいるかもしれないものかも、と脳裏をよぎったので写真は控えさせていただきます。気になるかたは、1度足を運んでみてはいかがでしょうか?