中世の歴史感じる豊地城。
豊地城跡の特徴
豊地城跡は別名捨市城で、戦国時代の城郭です。
十日市が由来とされる歴史的な城名です。
神戸の85号線沿いに位置し、重要な史跡です。
中世の城郭、戦国時代に三木の別所氏のものとなり、三木合戦後豊臣秀吉も滞在したことがあるのですね。ここにも歴史ありですね。
道沿いの城址表示石の奥に土塁があり、道路と水田の間も堀跡を想像させます。棚田とも思えますが、土塁東側の神社の隣りにある水田も一段下がっていて、ここも堀跡かと勝手に想像して見ていました。
南北朝時代築城の城跡。今は僅かに土塁などを確認出来る程度です。秀吉の三木城攻め後に廃城になりました。
土塁残欠、郭など一部残る。
元の形状はわかりにくいです。山の一部に土塁が残っていました。
十日ごとに市場が立つ「十日市(とうかいち)」が変化して豊地(といち)が城名になったとされる城跡です。現在は巨大な土塁後とすぐそばの神社に城跡であったとされる石碑が建てられています。室町時代の播磨守護職・赤松氏の家臣であった依藤氏によって建てられ、のちに戦国時代になると別所氏の一族である別所重宗が依藤氏を倒しこの地を治め、織田方による播磨平定による羽柴秀吉軍も三木合戦時には滞在した大規模な城だったようです。この辺りは、三木の別所長治と合戦をしていたに関わらずと思いますが、趨勢を読んだ重宗は織田方に就くことを決め、同族ながら敵対することを選んでいます。また「鯛切りざんまい」という伝承があり、とある魚屋が毎日明石へ魚を仕入れに行き、お得意様である豊地城の侍が特に鯛を好んだことから、鯛を侍屋敷で刺身用に下ろしていたところ、白い猫が切り身を盗もうとしたのを見て、思わず包丁を投げると運悪く猫の首筋にあたり、大声をあげて亡くなります。その騒ぎを知った侍が、この猫が殿様の飼っていた猫と解り、弁明の余地なく魚屋は即刻打ち首になったそうです。それから間もなく、豊地城は敵の夜襲にあい城主をはじめ家臣一同は自害の最後を迎えることになったそうです。このことから、魚屋の祟りによる自業自得と村人たちは噂しました・・この伝承からすると、依藤氏が別所氏の夜襲攻撃にあったのであろうと思います。現在の城跡は、その後に別所氏の家臣である吉田伊賀守が改修工事を行ったとされるもので、現在残っているのが城跡とはいえ城を囲っていた土塁の一部が残るだけなのですが、ここにも時代を動かす原動力があったことを感じる場所です。
【85号線沿いに案内板あり】【羽柴秀吉・別所・依藤・赤松・金谷経氏に関係あり】東条城ともされている。八幡神社と幼稚園まであったとされている。
名前 |
豊地城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.city.ono.hyogo.jp/soshikikarasagasu/kokokan/1/1746.html |
評価 |
3.2 |
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小野市中谷町にある豊地(といち)城は、別名 捨市城とも呼ばれる。築城時期は定かではないが、南北朝時代と云われている。長らく国人(地方の豪族)である依藤氏が居城としていたが、戦国時代、別所長治の叔父 別所重宗(重棟)によって滅ばされる。別所重宗は、ここ豊地城を本拠とし、織田信長に反旗を翻した三木城主 別所長治、別所吉親(重宗の兄) に従わず、羽柴秀吉方に付いた。三木合戦では別所氏は、本家と分家に分かれて戦うこととなった。三木城落城後、この豊地城は廃城となり、別所重宗は、但馬の八木城主となった。豊地城跡は、遺構として土塁の一部、空堀が確認出来ます。