江戸の歴史を感じる、数馬の切通し。
数馬の切通しの特徴
数馬峡橋からすぐの大岩を切り通す、歴史のあるスポットです。
江戸時代初期に作られた青梅街道の切り通し跡が魅力的です。
近くに駐車場があり、白丸駅からも便利にアクセスできます。
穴の方の東側直ぐ横に見える階段から上の切り通しに行けます、道は分かりづらいですがある程度踏み均してあるので気を付けて行きましょう。
なかなか場所が分かりづらいですね。トンネルがそうだと思っている人が多いようですが違いますよ〜😅
旧青梅街道の歩き旅で訪れました。ここは江戸時代に山越えをするため、岩山を人力で掘削し切り通しにした場所です。凄いですね!この先は行き止まりで国道に降りるには危険ですので、来た道を戻るのが安全です。
白丸駅から歩いて10分程で到着出来ます。江戸時代の1700年代から微修正されながら使われてきた往時の道の場所も掲示板に表示されており大変に興味深かったです。現代のようなトンネルがない時代には峠付近の岩を削り取ってでも人馬が通れるような道を人力で作っていたとなると昔の人の労力には恐れ要りますね❗切り通しを観察すると江戸時代の石切職人の手作業の痕跡がきれいに残されています。だとすると、現代の人は道路をオリジナルで作ったとは言いづらく、昔の人が敷いた手作業道の付近に機械を使ってアレンジして作り直しただけとも言えます。
2024.6.15 初訪問。探しました。たどり着くのが大変。川に面している、という先入観があり、それが間違いのもと。数馬峡橋近くの駐車場から上に伸びる細目の車道を登り、途中から左折、すぐ。たどり着くと、江戸時代に開削された切り通しに圧倒される。もう少し案内板が丁寧だと助かるのだが。
ドラマでも使われた場所らしいです。それにしてもよく人手でこれをつくれたと思います。周辺の環境が自然の緑に癒される感じが良かった。
とても雰囲気のある場所です。切り通しの上には小さな社もあります。
数馬峡橋からすぐのところに位置し、大きな岩盤を名前の如く切り通しておりました。鶴嘴だけで一枚岩の岩盤を全長約8m直径3mを削り掘り進むとは驚きです、内部には鶴嘴で削ったと思われる痕跡が垣間見れます、あっぱれ!奥多摩町役場のウェブページには氷川方面へ向かう山越えの難路を避けるために開かれた、かつての交通の要所です。その昔、往時における奥多摩地方の交通は、東西関係には支障が多かったが、元禄年間、この数馬の切通しの完成により、初めて東部方面との関係が密接になったと言われています。とあります。写真2022 6/5
人の手で貫通させたというのは驚きです。結構迫力がありますしこんなものをむかしの方が作ったと思うと感慨深いです。
| 名前 |
数馬の切通し |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0428-83-2152 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
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書により「数馬の切通し」をしらべてみる道路供養碑は2基あったようであるが、1つは残り、1つは亡失(ぼうしつ)したとある。_____________❶【参考 皇国地誌・西多摩郡村誌 6 1984年】供養塔の石標宝暦中におこなわれた修繕の石標である、とある。高さ3尺7寸5分、幅1尺2寸5分。「甲 宝暦四年 戌 三月吉日」「従 留浦村氷川数馬 迄道 供養」「願主 留浦村 二人、川野村九人、〇〇村二人、原村二人、堺村八人、栃久保村二人、氷川村十六人、〇〇村三人」と彫ってある。宝暦4年は「甲戌(きのえいぬ)」で、甲戌の間に「宝暦四年」をはさんで彫っている。_____________❷【参考 奥多摩歴史物語 1993年】「馬での物流ができる道」これができる前は「根岩(ねえや)越え」の山道が往来の手段であって、そこは人が通るのがやっとで、馬にて荷物を運ぶといった経済活動は全く出来なかった、とある。寛政11年(1799年)8月「御尋之儀に付き答上帳控(おたづねのぎにつき こたえあげちょうひかえ)」によると、数馬新道は「此の年より100年前に、一人の六部と一人の百姓によって切り開かれた」と記載されている。1799年の100年前となると1699年となり元禄12年頃という事となる。ここの新道の開さくには3つの説があるが、上記はその一つである。