歴史感じる五輪塔の道。
和歌城跡の特徴
石造五輪塔の看板を目印に農道を進むと、隠れた魅力が待っています。
和歌城跡は静かな環境にあり、歴史を感じられるスポットです。
農道を進むことで、訪れる人に特別な体験を提供しています。
地域の若衆がハッテン場に、してますね。
管理されていないといふより関心がないのかなといふ印象のこっていってほしい史跡。
石造五輪塔の看板のある道から農道を入って、少し行った所にある。室町時代にこの一帯を赤松氏が居城としていたという。遺構は農地になっており僅かに民家の一部に確認できる程度。
| 名前 |
和歌城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
2.6 |
| 住所 |
〒300-3544 茨城県結城郡八千代町若360−360−2 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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室町時代に嘉吉の乱(1441年)を起こした赤松満祐の次子といわれる赤松祐弁なる人物が、乱後に諸国を流浪の後に当地に落ち着いたという伝承があり、残る五輪塔は祐弁の墓であるとされますが、伝承の域を出ないようです。五輪塔のところに説明板があり、どうも五輪塔の場所が主郭の土塁上のようですが、よくわかりません。五輪塔近くの民家の北側の薮に土塁が残っているようですが、それ以外の遺構は耕作地化により湮滅しているようです。とはいえ、東に伸びた舌状台地地形が城郭としての名残りなのでしょう。城を築城したのは和歌十郎氏忠なる人物で、この和歌十郎が多賀谷氏に滅ぼされ、多賀谷氏の家臣赤松氏が居城しました。先の五輪塔も、この赤松氏が先祖供養のために建てたものでしょうか。秀吉の北条氏攻めの後に秀吉の命令で結城氏に属すことを嫌った多賀谷重経が、苦肉の策として、子の三経を和歌城に配置して結城氏家臣として分家(太田多賀谷氏)、自らは下妻にあって佐竹氏に属し(下妻多賀谷氏)ました。三経は間も無く南側の太田城に移ったようで、和歌城には配下の古沢佐渡が入りました。関ヶ原後、結城氏(秀康)が越前転封となったのに伴い、多賀谷三経も越前に移ったため、廃城となったと言います。