円融天皇の御陵、歴史感じる場所。
圓融天皇後村上陵 拝所の特徴
第64代圓融天皇の御陵があり、歴史を感じる場所です。
円融天皇は991年に崩御し、ここで人々の哀しみをささげました。
御陵は円丘の形状を持ち、村上天皇陵の近くに位置しています。
991年3月1日(正暦2年2月12日)に円融寺で崩御。遺体は円融寺の北原で火葬に付され、父である、村上天皇(926-967)陵の傍らに遺骨が納められたとされる。
重なってるじゃないですか。広くない史跡に2つも要らないです。
今昔物語に「円融院の法皇失せ給ひて、紫野に御葬送ありけるに、一とせ此に御子の日に出でたせ給へりし事など思ひ出て、人々哀れに嘆き悲しみけるに」とあるので、円融天皇の御陵って?と思い調べてみた。紫野じゃなくて、宇多野にあった。火葬塚は衣笠らしい。そちらもいずれ。
陵形は円丘で父の村上天皇陵が有る山の麓近くに造られています。木々が綺麗に剪定されているため内部の様子もうかがえます。宮内庁書陵部の陵墓地形図集成によると面積は3088.25㎡と記されています。
福王子の交差点からほど近く。地図的には国道162号線周山街道のほうが近く見えますが、遥拝所へは交番を挟んだ住宅地へ抜ける狭い道を行きます。第64代円融天皇村上天皇の第五皇子。母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。兄である冷泉天皇即位後、3ヶ月余りにわたる皇太子の空位の後、康保4年(967年)9月1日、9歳にして、同母兄の為平親王を飛び越えて立太子。これは為平親王が源高明の娘を妃にしていたため、これを警戒した藤原氏の意を受けたものと考えられている。安和2年(969年)安和の変で源高明が失脚すると、その5ヶ月後冷泉天皇の譲位を受けて即位する。即位時はまだ11歳であったため、大伯父にあたる太政大臣藤原実頼が摂政に就任。
名前 |
圓融天皇後村上陵 拝所 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-601-1863 |
住所 |
〒616-8208 京都府京都市右京区宇多野福王子町64−13 |
HP | |
評価 |
4.4 |
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第64代圓融天皇 後村上陵いい場所にあるので周りの人は幸せです。