八木町の隠れキリシタン村へ。
ジョアン内藤飛騨守忠俊顕彰碑の特徴
八木城跡の近くにあり、歴史的な雰囲気を感じられます。
隠れキリシタン村の忍頂寺と関連を探る楽しさがあります。
石碑を見ることで歴史への興味が湧く絶好のスポットです。
八木町の山を西方に入ると隠れキリシタン村の忍頂寺があり、何か関係があるのか、調べてみようと感じました。
この様な石碑をみると、凄く興味が出ます、トコトン調べます、何故か?初めて知る名前です、高山右近は良く判りますが、内藤飛騨守は初めて目した名前です。慶長8年頃(1603年)前田氏の居金沢城には同じくキリシタンである高山右近がおり、ともに熱心に布教活動や教会の建設に取り組んだ。しかし慶長18年(1613年)、徳川家康からキリシタン追放令が出されると、慶長19年(1614年)9月24日、内藤飛騨守如安は高山右近や妹のジュリアと共に呂宋(今のフィリピン)のマニラへ追放された。到着先のマニラでは、総督以下住民の祝砲とともに迎えられるなど、手厚い歓迎を受けた。マニラではイントラムロス近くに日本人キリシタン町サンミゲルを築いた。寛永3年(1626年)、死去、現在[いつ?]はサンミゲル近くの聖ビセンテ・デ・パウル教会に終焉の地の記念の十字架が建っている。なお、如安が縁となり、八木城のあった船井郡旧・八木町とマニラは姉妹都市となった。八木町合併後の南丹市も姉妹都市提携を継続している。
名前 |
ジョアン内藤飛騨守忠俊顕彰碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.7 |
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八木城跡の山に向かって建っています。最後はマニラに島流しになった内藤ジョアンさん。この地に戻りたいと懐かしく思い描いていたことでしょう。戦乱の世を想ってお立ち寄りくださることをおすすめします。