五十子の陣で武将気分。
五十子陣跡 ~戦国時代の始まりの地の特徴
関東中世の歴史を学ぶスポットとして注目される公園です。
五十子陣跡は武将気分が味わえる絶好の眺望が広がっています。
草刈りの行き届いた説明板周辺で歴史を実感できます。
公園となっています。旅館城山館の付帯設備として整備されたのでしょうか。現在は城山館は営業していませんが、この公園には自由に入れるようになっています。城山館と隣の廃店舗の間の道を入り、坂を降りる前に左(西)に曲がると公園の象の像が目に入ります。特に城跡としての遺構はありません。
特別なものはないけど看板のある場所から眼下を眺めると武将気分♫
説明板の所は草刈りがされていました。今が見ごろでしょうか。説明板下から見ると当時のものか分かりませんが土塁っぽく見えます。2022.2.11訪問。
市なのか県なのか判りませんがこの公園の管理担当部署の方、夏場は草刈りをお願いします!雑草が深くて公園内にある説明板までたどり着けませんでした。せっかく遠くから来たのにガッカリです。ちょうど昼だつたので隣の”てんぐ茶屋でおいしいうどん食べ、気分を切り替えてソソクサと帰りました。その後年が明けて桜が開花した3月末に再度訪れた時は雑草は無く、無事説明板も読めました。ただ公園内にあるコンクリート製のゾウは違和感満載です。
資料によると、五十子陣(いかっこじん/いかっこのじん)とは、室町時代中期に武蔵国児玉郡五十子(埼玉県本庄市大字東五十子及び大字西五十子の一部)に所在していた平城。15世紀中頃に関東管領である上杉房顕が、古河公方である足利成氏との対決に際し、当地に陣を構え、1457年頃に築いたものが五十子陣である。五十子は本庄台地の最東端に位置し、利根川西南地域を支配していた上杉方にとって、利根川東北地域を支配していた足利方に対する最前戦の地として選ばれた。当時、五十子の領地を治めていたのは、武蔵七党児玉党本宗家の本庄信明であり、山内上杉家の五十子陣を守備する為に大字北堀(東本庄)の地に館を築いている。1477年に長尾景春に攻め落とされ、陣が解体するまで山内上杉家の拠点として活動し続けた。五十子の戦い(山内上杉家の敗退)は、東国における戦国時代の遠因へと繋がっていった。とあります。小山川と女堀川とで、V字状の要害地を形成していて、坂東地域での勢力争いの要所にある本庄の激戦地帯になったのだと思います。北側に浅間神社(鵜森)、西側に若雷神社(東五十子)があり、その激戦の様子を見守っていたようです。遺構は特に無いようで、てんぐ茶屋の東南の建物の東端が城郭の様な景色になっていて、その庭の植え込みに、「ほんじょうかるた・五十子合戦」の石碑があります。
飲食店の天狗茶屋ではないですか、
名前 |
五十子陣跡 ~戦国時代の始まりの地 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0495-25-1186 |
住所 |
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評価 |
3.2 |
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関東中世の歴史を学ぶものなら知らないものはいない、ここ五十子の陣ですが、行ったことある人は少ないのではないでしょうか?陣といいますが大規模な城跡です、ただ城跡はほぼ何も残っていません。「戦国時代始まりの地」と説明板にかかれています。言い得て妙というか言いも言ったりといいうか、キャッチーなコピーを考えたなと思いましたね。たしかにこの地に本拠を構えた関東管領勢と利根川を挟んで遠く東、古河に本城を構えた関東公方足利成氏がにらみあい、享徳の乱(関東大乱)がおこり、それが飛び火して応仁の乱が始まったとする説がありますから慥かにそう言ってもおかしくはないですからね。