多々良沼の古城跡、歴史の息吹。
鶉古城跡の特徴
多々良沼を水堀とした歴史的な城跡です。
元弘3年に新田義貞が攻め入った場所です。
半島を堀と土塁で区切った立地が魅力です。
ここ鶉古城は、鎌倉時代後期執権北条高時公の弟荒間朝春公がここまで逃げて来て多々良沼に突出した荒間崎に築城、その後、多々良四郎忠致の居城になり、戦国時代は、館林城主の家臣小曽根政義が小田原北条氏に備え守備しましたが、豊臣秀吉の小田原攻めの際、館林城落城に伴い廃城しました。250年も良く続来ましたね😀現在は、案内板や土塁が残ります。本丸跡や二の丸跡もあります。昨日は、鶉古城祭りをやっていましたので、良かったですし、御当地アイドルもイベントで参加してました🫡😀
遺構の見応えについての評価。2025年5月に訪問。多々良沼西側の突出部に位置する多々良沼公園内に、土塁と空堀が残る。駐車場、案内板あり。最寄り駅の東武小泉線「成島」駅、東武伊勢崎線「多々良」駅からは30〜40分は歩く距離。館林駅からはタクシーだと2000円ちょっと。以下、案内板よりーーーーー鶉古城跡鶉新田字小城(うずらしんでんあざこじょう)にある、多々良沼に突出した「荒間崎(あらまさき)」と呼ばれた半島部に築かれた城である。城名については葵下坂といわれた幕府御用鍛冶康継二代の弟が、この地に住み脇差に「鶉古城打」という銘を残しているところから江戸初期、すでにこの名称が使われていたものであろう。城趾西南端に当たる入口の道路付近から、半島部を横断するように北に向かって直線にのびる、高さ三メートル、長さ二五〇メートルほどの土塁と、その西側に沿って空堀がある。元弘三年(一三三三、五月、北条高時が鎌倉に滅ぼされたとき、、その弟の僧慧性(えしょう)・荒間朝春らはともに逃れて来て、ここに築城。応永年間(一三九四~四二八)には多々良四郎忠致(ただむね)の居城となり、さらに戦国時代を迎えると、館林城主の重臣で下野国小曽根郷八形( 足利市高松町)城主小鲁根政義は小田原北条氏の来攻に備え、兼帯で当城を守備した。しかし、天正一八年(一五九〇)館林落城に伴い廃城となり鶉古城二五〇余年の歴史を閉じた。今はわずかに残る異濠と、先端浮島に安置してある南北朝期と推定される墓石の一部が、辺りの風景とともに往時の繁栄を物語る。昭和六十一年三月 邑楽町教育委員会。
鎌倉幕府が滅亡し、北条高時の弟の朝正(慧生)らが逃げ延びて築城したと伝わり、その後改修され何代か城主が変わり、秀吉公の小田原征伐後に廃城となる…。広大な多々良沼公園の南側の一角にあり、カシなどの大木が覆い被さる城跡には、土塁と堀の遺構がいまもはっきりと残っている。悠久の歴史を秘めて、誰ひとりとして振り返る人もない、ひっそり閑と静まり返った佇まいが、ふといとおしく思えてくる…。吹きわたる強い風に、首を胴体に突っ込んだまま微動だにしない沼の白鳥にカメラを向けて、辛抱強くチャンスを狙う人々や、派手な浮島弁財天へと足を運ぶ人ばかりで…。案内板、🅿️🚻あり。2025/2/6
地形としてはお城があってもおかしくない感じですけど、遺構は土塁だけなので想像するのはかなり難しかったです。
古城と意識して見ると土塁であるとか、沼であるとか、なるほど古城であることが理解できます。欅の大木とかが時の流れを教えてくれます。今や静かな良い憩いの公園になっています。
2022/10/16公園化されているためあまり期待してなかったが、駐車場に車を停めてびっくり。目の前にはかなり大きな土塁が一直線に伸びており、手前にはかなり浅くなっているが堀がある。東側の沼との間には水堀跡らしきものもありなかなか良い。
多々良沼に行ったら、この古城と、弁財天に寄ってみては?多々良沼は一周5キロちょっとです。桜と藤の季節は散策に最高です。
多々良沼を水堀とした城跡ですが、水堀以外は堀と土累で守られた城です。城跡としては古い時代かと想われます。縄張り図がないので詳細が解りにくい。多々良沼は大きいです。
多々良沼に突き出た半島を堀と土塁で区切った城跡です。やや館林城跡にも似ていますが、城内は公園化されたため、遺構を確認することはできません。古は刀鍛冶が居住していたと言う逸話があります。城内は広く、城の性格から防御のためにではなく、兵站の確保の色彩が強く、敵地における兵の根拠地として使われた可能性が考えられます。
| 名前 |
鶉古城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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公園駐車場の隣にある藪が城趾。北条高時の弟が築城したという。赤井氏・足利長尾氏の両方に仕えた小曽根氏が寄るところとなった。