三枚橋城の歴史、沼津で再発見!
三枚橋城外堀石垣の特徴
三枚橋城の外堀石垣は平成6年発見の石を復元した歴史的遺構です。
武田勝頼が築城した三枚橋城の城壁跡が沼津リバーサイドホテル前にあります。
戦国時代から江戸時代初期の沼津城下町の歴史を感じられる史跡です。
田舎と言われる沼津だがこんなに素晴らしい歴史物があるんです!石の質感がもうたまらない!
三枚橋城は沼津リバーサイドホテルの入り口に面した所に外堀の石垣跡が有りますよ❗三枚橋城は駿河国沼津(現在:沼津市大手町)日本の城であった(別名:観潮城)樋口雄彦→沼津藩;近世初期は大久保家・中絶後、後期は水野家が治めた東海道の宿場町と発展した城下町であった。慶長以前の古城の三枚橋城と安永以後の新城の沼津城があった。大久保治右衛門忠佐が城主となるが慶長19年(1614年)忠佐の死後、三枚橋城は廃城となり、160年余年間沼津には城がなかったが安永6年(1777年)に老中となる水野忠友が沼津城を築城した。後に水野藩は菊間(千葉県市原市)に移り、明治になって城は沼津兵学校の校舎に使用された。
武田勝頼が築城した三枚橋城城壁。対北条の為の縄張り城で武田水軍の拠点でもあったそうです。南側は狩野川が堀の役目をしていたそうです。
平成6年に発見された三枚橋城外堀跡に使用されていた石で復元した石垣。この下には今も堀跡が埋もれているらしい。
ここには江戸時代沼津城があったが、その前の戦国時代から江戸時代初期にかけては、三枚橋城がありました。沼津城は、規模が小さく、三枚橋城の北半分を使って築城したと言われています。三枚橋城を築城したのは、今川の領地に進出してきた武田勝頼です。武田氏の滅亡後は、徳川家康の命により松井忠次(松平康親)が城主となり、小田原征伐があった天正18年には豊臣秀吉の家臣中村一氏の弟中村一栄が城主となっています。その後、慶長6年には大久保治右衛門忠佐が城主となりますが、慶長19年忠佐の死後跡継ぎがないため三枚橋城は廃城となりました。沼津城が築城されるのは、その160年後のことになります。
名前 |
三枚橋城外堀石垣 |
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ジャンル |
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住所 |
〒410-0802 静岡県沼津市上土町100−1 100番地1 |
HP | |
評価 |
4.3 |
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沼津城(三枚橋城)の石垣の石をもとに、ホテルの前にわずかですが復元されています。