九十九里浜の頼朝伝説。
箭挿神社扁額・源頼朝像蓮沼村由来分地録には、「九十九本矢を指し遊ばれ候に付き、九十九里箭挿の浦、黒土の浜とそれより唱え申し候、当村西郷箭挿明神は四十九本目に相当り故、矢を十本相祭小宮を建て、箭挿八幡宮と称し奉り候」と伝えられている。また、一説によれば源頼朝公は、丁度、中央にあったこの祠を里人に聞いたところ、日本武尊を祭った社と云われ、大いに喜び、先祖の源義家にならって祭りを行うため残った矢を束ね、幣帛(供物)として矢を神社に奉納し、祭を執行した。社額に古式蒼然たる「箭挿社」の額が掲げられている。これは、元治元年(1864年)3月、北総佐倉の續豊徳の撰文により宮崎重賢が書き、広田彬が彫刻したと背記されている。源頼朝公像(木彫り約八寸)嘉永2年(1849年)に津田氏から奉納されたものである。~千葉県山武市公式ホームページより転載~
名前 |
箭挿神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
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『蓮沼村由来分地録』によると、箭挿神社の起源は九十九里浜の名前の由来、つまり頼朝伝説に関連しているとされます。頼朝が太東崎から刑部岬まで一里ごとに矢を刺していくと九十九本の矢が刺さり、そこからこの浜を九十九里浜と呼んだとされます。その折、四十九本目の矢が刺さった場所、九十九里浜のちょうど中間にあたる場所に祠を建立したのが当神社であると伝えられ、頼朝が『まん丸や箭挿が浦の月の的』と詠みました。また、一説によると、九十九里浜のちょうど中間にあった神社の祭神が日本武尊であると聞いた源頼朝は、先祖でもある源義家にならい頼朝も矢を束ねて供物として奉納したとされ、これが箭挿神社であると云われています。当神社に伝わる『箭挿神社扁額・源頼朝像』は、山武市の有形文化財(彫刻)に指定されています。扁額は元治元(1864)年3月に北総佐倉の續豊徳の撰文により宮崎重賢が書き、広田彬が彫刻したと背記されており、一方、源頼朝像は木彫り約8寸で、嘉永2(1849)年に津田氏から奉納されました。当神社は、北東側に鎮座する五所神社が管理しており、狭い僅かなスペースに駐車しました。