歴史を感じる暇修館へ!
暇修館の特徴
暇修館は1839年に医学研修所として設立された史跡です。
水戸の弘道館を訪れた際に歴史を学ぶ場所として魅力的です。
旧大窪城に位置し、場所が少し分かりづらいのが特徴です。
私が行ったときは無人で入場できませんでした。
2024年12月26日に訪れました。天保元年1830年に始まった徳川斉昭による水戸藩の藩政改革により、天保10年1840年に開校した郷校の一つです。開校された15校の内、藩校の弘道館を除くと、修復されて見学可能なのは、ここ興芸館(暇修館)だけです。郷士のみならず、一般に門戸を開き、維新回天の土壌を培うことになりました。
弘道館が出来る2年前には、創建されていたそうな。高床式なのが、見所。たまたま管理人さんがいたので、入れました。15の郷校のうち、弘道館以外で、残っているのはこちらだけだそうです。銀魂の撮影にも使われた貴重な場所。後世に残したい貴重な財産ですね。
予約してなかったけど、見せてくれました!
暇修館の係の方に案内していただき勉強になりました。
学問・教育は権力者や豪族しか受けられなかった時代に、庶民に門戸を開いた水戸藩の郷校(江戸時代から明治初期に設立された教育機関)です。また、大窪城跡地でもあります。道が狭いので、車で行く際は気を付けて下さい。😅
水戸の弘道館を訪問した祭、日立市に本学があることを知って寄ってみました。水戸藩15の郷校のうち5番目に古いそうです。建物や庭はしっかり維持されている整備された史跡でした。本学に関係する資料は多くは展示されていませんから短時間で見終わると思います。管理人さんには、簡単に案内して貰いました。館内は廉価で使用できるようです。この地に通ずる道の入口に目印となる石柱があるのですがこれは目立たなくて見逃しやすい。1,2度当たりを往復する羽目になった。車1台分の幅しかない道路に入るので注意が必要です。
1839年に旧大窪城に医師大窪光茂が医学研修所興芸館を創設、1844年に水戸藩郷校15校開校の内5番に古く開校される。地元の神官、水戸弘道館からも出張教授、医学・武術が行われ学問に力を入れた。1972年に創設当時に復元される。
歴史を感じさせられる所です、ただ、場所が分かりづらい。
| 名前 |
暇修館 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0294-36-0553 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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暇修館は、JR東日本の常陸多賀駅の東1.5kmほどの茨城県日立市大久保町にあります。天保10年(1839年)多賀郡大久保村(現在の日立市大久保町)の医師である大窪光茂が、私有地を提供して地方の医師の研修を目的とした学問所「興芸館(こうげいかん)」を開業しました。光茂が初代館守(館長)を務め、医学を中心とした学問の研修が行われました。弘化元年(1844年)興芸館は「暇修館(かしゅうかん)」と名を改めました。この名称は中国の文献に基づいた言葉で、「若者は空いている時間には勉学に励め」という意味が込められています。この改称を機に、教育対象は郷医だけでなく、神官、郷士、村役人、さらには一般庶民へと積極的に拡大され、地域に根ざした郷校へと発展しました。安政3年(1856年)には、「大窪郷校(おおくぼごうこう)」と呼ばれるようになり、水戸藩の天保改革に基づく「武備の充実」に対応するため、文武修練の場としても機能するようになりました。しかし、9代藩主・徳川斉昭の失脚や幕末の動乱とともに、暇修館は次第に衰退していきました。明治時代に入ると、建物の老朽化が進み、小学校や村役場として利用された時期もありましたが、昭和39年(1964年)に土地と建物が日立市に移管され、建物は解体されました。その後、水戸藩の農政学者・永嶋尉信が書き残した「戴水漫筆」の中にあった間取り図などの詳細な記録に基づき、昭和48年(1973年)に日立市によって建物が復元されました。現在、復元された暇修館は、日本の庶民教育史研究上大きな意義を持つ文化財として、広く市民に公開されています。地域の人々の集会、お茶の会、活花教室、詩吟の会など、様々な文化活動の会場として利用されており、静かな竹林に囲まれた長閑な雰囲気の中で、当時の歴史を感じることができます。