虚空蔵山城跡で歴史を感じる。
虚空蔵山城跡の特徴
遊具広場から徒歩15分で本丸に到達できます。
大手門の道を使って登城が可能です。
こくぞうやまと読む歴史ある城跡です。
小学校隣の遊具広場から15分ほどで本丸まで行けます。小規模ですが石垣も残されています。
大手門の道より登城。山城なだけに急ではあるが、登山道が整備されており、登りやすい。大手門、二の丸、本丸などか広がっているが、縄張り図がなく、いまひとつ城の全体像がわからない。また、空堀や土塁の形跡もあるが、表示がない。学校の裏にあり、地域を代表する山城なので、丁寧な説明があれば、もっと理解が広まると思う。本丸の虎口の道から下るが、こちらの道は木杭が腐り、滑り安く歩きにくい。途中通行止めで迂回しなければならなかった。先日のみ大雨の影響でかしょうがないが、わかっていれば別ルートをたどっていた(黒岩の道は最近整備されていた)。総じて魅力的な所であるが、案内や説明書がもっと丁寧であればよいと感じた。
こくぞうやまと読みます。和気小学校の体育館横に 大手門の道 として遊歩道が整備されていて、急な勾配を案内表示の通り進んで行けば大手門跡に辿り着きます。更に進むと右側に二の丸が見えてきます。二の丸周辺には土塁.横堀が残り、虎口の基礎部分には僅かでは有りますが石垣も存在しています。二の丸と向かい合っている本丸も空堀が囲み、ここからは日本海まで眺望出来ます。本丸から更に馬場搦め手に進めば竪堀や堀切らしき箇所も有ります。遊歩道として案内標示など整備されていて、非常に見学しやすい環境になっている印象です。
| 名前 |
虚空蔵山城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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虚空蔵山城跡は、尾根に残る土塁や堀切から、富樫氏の内紛と加賀一向一揆の時代を読める中世山城跡である。虚空蔵山城跡(こくぞうやまじょうあと)は、平地に復元建物が並ぶ城ではない。山の尾根をたどりながら、本丸、二の丸、大手門、土塁、堀切、石塁、喰違虎口といった痕跡を読み取る城跡である。まず意識したいのは、山の起伏そのものが防御の形に変えられている点である。本丸や二の丸へ続く尾根上の平坦地は、山城の骨格をよく示している。平坦な場所は単なる広場ではなく、人が詰め、動き、守るための郭である。そこに土塁や堀切が加わると、自然の尾根道が進入を止める線に変わる。大手門周辺の石塁や、通路をずらす喰違虎口も、攻め手をまっすぐ入れないための工夫として理解しやすい。この城跡は、能美市の和気町・寺畠町・舘町にまたがる丘陵上に広がる能美市指定史跡である。白米城、和気山城、舘城とも呼ばれ、東西約600m、南北約500mの範囲に、本丸を中心とする7ヶ所の平坦地が尾根筋に配されるとされる。この広がりを知ると、小さな平坦面や切れ込みも、城全体の配置の一部として見えてくる。歴史の焦点は、まず富樫氏の内紛にある。文明6年(1474)、富樫政親側が虚空蔵山城を攻め、富樫幸千代は越中へ逃れたとされる。この出来事から、少なくともこの時期には、虚空蔵山城が地域の争いの中で重要な拠点だったことが分かる。山上の郭や堀切は、守護家の対立が実際に及んだ場所として受け止めたい。その後、この城は加賀一向一揆勢の拠点にもなったとされる。天正3年(1575)には、織田方の北陸方面での軍事行動の中で攻められたという整理が一般に示されている。攻城者や在城者名には資料による表記差があるため、細かな人名を断定的に並べるよりも、「富樫氏の内紛の城」から「一向一揆の拠点」へ意味を変えた点を押さえたい。この変化を踏まえて現地へ戻ると、土塁や堀切の見え方も変わる。堀切は尾根上の通路を断ち、敵の動きを絞る構造である。土塁は郭の縁を守り、石塁や虎口は城内へ入る動きを制御する。歴史上の勢力名を知ったあとでこれらを見ると、遺構は単なる凹凸ではなく、戦国期の緊張を地形に刻んだものとして読める。一方で、この城跡には地域の語りも重なっている。黒岩には、落城時に城主が金の茶釜をその下に埋めたという伝承があり、後に村人が探しても見つからず、「一尺掘ると一尺沈む」とも語られる。ただし、これは史実の説明ではなく、詳しい初出や物語の展開にも未確認の部分がある。落城を証明する話としてではなく、黒岩という現地の場所に結びついた地域の記憶として受け止めたい。伝承に触れた後も、視線は城跡本体へ戻る。黒岩のような語りの場所と、本丸・二の丸・大手門のような防御の場所が同じ山中にあることで、虚空蔵山城跡は史実だけでも伝説だけでもない厚みを持つ。尾根上の遺構は中世の軍事拠点を語り、黒岩の伝承は後の人々がこの山をどう記憶してきたかを示している。現在の地域との関係も、この城跡を理解する補助線になる。虚空蔵山は和気町のシンボルとして語られ、虚空蔵太鼓や地域学習とも結びついてきた。寛政11年(1799)の「和気山古城之図」が再発見され、教育の場で活用されていることも、城跡が地域の記憶を支える場所であり続けていることを示している。この城跡の理解は、年号や人物名だけでなく、尾根の形から深まる。本丸へ向かう道、郭の平坦面、堀切の切れ込み、土塁の盛り上がり、虎口の曲がり方が、それぞれ城としての働きを持っている。そこへ富樫氏の内紛、一向一揣勢の拠点化、織田方の攻撃という流れを重ねると、この山がなぜ争いの舞台になったのかが見えてくる。虚空蔵山城跡は、派手な復元物で見せる場所ではない。里山の尾根に残る小さな起伏や切れ込みが、加賀中世史の大きな動きにつながっている。ここは、富樫氏の内紛と加賀一向一揆の記憶を、遺構と地形から静かに読み解く場所である。