金沢の鷹巣城跡、驚きの遺構!
鷹巣城跡の特徴
鷹巣城跡は金沢市の南西部に位置する山城跡です。
良好な遺構がびっくりするほど残っているのが魅力です。
小高い丘陵上にあるため、散策に最適なロケーションです。
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びっくりするほど良好な遺構が残っていた。
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| 名前 |
鷹巣城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
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鷹巣城跡(たかのすじょうあと)は、石川県金沢市西市瀬町の南西部、瀬領町との境に位置する小高い丘陵上に残る山城の跡だ。派手な石垣や天守こそないものの、静かな杉木立の中に土塁や空堀がひっそりとその歴史を語っている。築城の時期や築城者についてははっきりしたことが分かっていない。ただ天正4年(1576年)頃、ここを拠点としていたのが平野甚右衛門(ひらのじんうえもん)という武将だった。彼はもともと美濃(岐阜県)の浪人で、一向一揆が支配する金沢御堂(尾山御坊)の軍勢に加わっていた人物だ。天正5年(1577年)には越後の上杉謙信が加賀へ侵攻し、織田信長の配下の柴田勝家らと手取川で戦って勝利を収めるが、この頃平野甚右衛門は謙信側につき越後に走ったとも言われる。一方、別の説では金沢御堂が織田軍に落とされた天正8年(1580年)にそのまま戦い続け、壮絶な討ち死にをしたという。この甚右衛門の最期を伝える「甚右衛門坂」という地名は、今も金沢市内に残っている。鷹巣城はその後、織田方の佐久間盛政(さくまもりまさ)によって改修され、越中や飛騨方面からの敵に備えるための重要な砦となった。ここには柘植喜左衛門(つげきざえもん)や敦賀八矢(つるがはちや)ら佐久間配下の武将が城番として交代で詰めたという話も残っている。また柴田勝家の家臣、拝郷家嘉(はいごういえよし)が城主になったという説もあり、当時の織田方にとってこの城がいかに重要だったかがうかがえる。天正11年(1583年)に前田利家が加賀に入り、この城も前田家の配下となる。その後、天正13年(1585年)には、越中の佐々成政が前田家を攻める際に、この鷹巣城を襲撃した記録が残っている。城下は火を放たれて危機に陥ったが、前田利家自身が援軍を率いて反撃し、成政軍を撃退した。この戦いは鷹巣城が実戦の舞台になった数少ない記録だ。その後、豊臣秀吉が佐々成政を降伏させて以降、城の軍事的価値は徐々に薄れ、江戸時代初期までに廃城となった。鷹巣城の構造は比較的シンプルだが、尾根を巧みに使った防御構造は見事で、南北方向に主郭が並び、東側には馬出し状の小さな郭が設けられている。周囲の郭は巧妙に配された空堀と土橋で守られ、敵の侵入を防ぐ工夫が凝らされている。これは織田・豊臣時代の最新築城技術を採り入れた痕跡だと考えられている。またこの城には、「鷹巣」の名の通り、鷹が棲んでいたという説や、城主が鷹匠だったため名付けられたという説もあるが、確かな根拠はない。しかし鷹狩りが盛んだった加賀藩だけに、何らかの関連があった可能性も否定はできないだろう。現在の鷹巣城跡は開発から逃れ、静かな山林の中にひっそりと眠っている。特別な整備や立派な説明板はなく、シンプルな案内標柱が立つだけだが、土塁や空堀はしっかりと残り、当時の雰囲気をよく伝えている。昭和54年(1979年)の調査では曲輪配置や出土品なども確認されているが、大規模な保存整備はされていない。なお、近くには「鷹巣トンネル」があり、夜間に女性の霊が現れるという噂がネットで広がっているが、これは公的な記録に基づくものではなく、都市伝説の域を出ないものだろう。実際に鷹巣城でそのような戦闘や悲劇があった史料は存在していないため、心霊話は話半分に楽しむ程度が良さそうだ。いずれにせよ、鷹巣城跡は地味ではあるが、加賀の戦国史を静かに物語る、趣深い史跡の一つである。