蛤坂からの風情ある町。
蛤坂の特徴
寺町丘陵の坂を下りると、風情ある入口が待っています。
蛤坂は犀川右岸から見える、はまぐりの形が特徴です。
寺町通りからのアクセスが良く、訪れやすい立地です。
金沢市寺町の南、犀川のほとりから寺町台地へと上がる坂道「蛤坂(はまぐりざか)」。この妙な名前には江戸時代から続く粋な由来がある。もともとは藩政期の初め、寺町寺院群の入り口として妙慶寺(みょうけいじ)が建てられたことから「妙慶寺坂(みょうけいじざか)」と呼ばれていたが、1700年(元禄13年)に坂の崖が大規模な崩落を起こし、藩はその修復を長い間放置したままだった。当時は33年もの間、坂道の入口には竹柵が設けられ通行止めの状態が続き、住民は不便な迂回路を使わされていたという。しかし、1733年(享保18年)に発生した大火が運命を変えた。千日町の雨宝院から出た火災は猛烈な勢いで広がり、周辺の家々や寺社を巻き込んだ。逃げ場のない住民たちは通行止めになった坂の前で大混乱に陥ったという。この出来事をきっかけにようやく藩は崖の修復に乗り出し、坂道は再び開通することになる。この時、庶民は皮肉を込めて「まるで火に炙られて口を開けた蛤のように坂道が開いた」として、「蛤坂」と呼び始めた。のちにこの呼称は明治時代になって正式な町名としても採用され、「妙慶寺坂」は完全に「蛤坂」として定着していった。坂上の妙慶寺にはもう一つ、不思議な言い伝えがある。享保の大火では付近の寺がことごとく焼失したのに、妙慶寺だけが奇跡的に無傷だったという。その理由とされたのが、妙慶寺に今も伝わる一枚の八角形の板。表に「大」、裏に「小」と記されたこの板は、妙慶寺の住職が昔、町人に捕えられたトンビを買い取って逃がしてやったところ、そのトンビが実は天狗の化身で、恩返しとして住職に授けた護符であると伝えられる。この護符のおかげで、妙慶寺は大火の災難から逃れることができたと言われているのだ。また、妙慶寺は幕末にも重要な歴史の舞台となった。慶応4年(1868年)、加賀藩が京都守備を放棄した責任を負い、藩の家老であった松平大弐(まつだいら だいに)がここで自刃した。その墓碑と辞世の句は妙慶寺境内に残されている。坂下には大正13年(1924年)完成の犀川大橋が架かる。犀川大橋は金沢城下唯一の犀川の渡河点で、江戸時代には北国街道の一部として交通の要所であり、蛤坂はまさに城下町への入口として賑わった。また、坂の途中にある貝割坂(かいわりざか)という脇道は1865年頃に整備され、その名も蛤坂にちなみ「蛤を割った道」という庶民のユーモアに溢れている。さらに、蛤坂を登り切った先は寺町追分と呼ばれ、左手は野田山墓地へ、右手は鶴来街道に通じる分岐点となっている。野田山墓地は加賀藩主前田家の墓所が置かれ、蛤坂から追分を経由して墓参に赴く道は藩政期からの重要な参道であった。坂道沿いには明治から大正期の歴史的建築が点在しており、特に老舗料亭「山錦楼(やまにしきろう)」は金沢市の指定保存建造物にもなっている。蛤坂という名の由来からも伝わる通り、この坂にはかつての庶民の苦労や皮肉、そしてユーモアが刻み込まれている。それを知らずとも趣ある石垣や緩やかなカーブを辿って坂を登れば、自然と歴史を感じられるはずだ。坂道そのものにこれだけの物語が詰まっていることに、金沢という街の奥深さを改めて感じさせられるだろう。
寺町通りから降りて行きました。緩やかなカーブで坂もそんなに、急ではありません。情緒のある街並みが続き、犀川が見えてきて、最後には目の前に犀川大橋が現れます。
寺町丘陵の坂のひとつです。金沢三十三観音霊場の妙慶寺と成学寺が上り右側にあります😊まっすぐ信号渡ると忍者寺ありますよ。
入口近辺は風情があります。
犀川右岸から見るとはまぐりの形をしています。
| 名前 |
蛤坂 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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お寺や町家風の建物が連なる風情ある通り。最も目を引くのが山錦楼(老舗料亭)で、明治三十年ころの建物が残っており市の指定保存建造物です。