昔を語る多胡碑の魅力。
多胡碑の特徴
上野三碑の一つで、日本最古碑の一つに該当する、重要文化財の歴史的意義です。
多胡碑記念館では、地元の歴史を大事にする雰囲気が感じられ、館内が静かです。
1300年前の文化交流を記す石碑で、文字が大きく見やすい工夫がされています。
'24.05.09 高崎市美術館へ行った時、時間が余ったので駅前で見た大看板に PR してあった多胡碑を見学することにした。上信電鉄の時間待ちも無く、多胡碑の最寄り吉井駅からの無料乗合タクシーのダイヤも良く、高崎駅から1時間かからないで到着した。JR高崎駅の東西連絡通路の真ん中にレプリカで展示してあるその雰囲気から想像して期待していた所が、現地の石碑は巾、奥行共に≒4㍍の鉄筋コンクリート造のお蔵に入っていてガラス窓からの覗き見だつた。すぐそばに多胡碑記念館があり関連展示がしてある。帰りも、それほど待たずに無料乗り合いタクシーがダイヤ通りに来たので上信電鉄の最寄り山名駅まで利用した。群馬県の有名な 「上毛かるた」 の「む」の札に登場していて、現地にその大判が展示されていた。無料乗合タクシーを運行をしている高崎市には有り難く感謝!。
上毛かるたシリーズ「む」昔を語る田胡の古碑ということで今回もやって参りました。田胡碑は上野三碑の一つとなります。因みに他二つは山上碑、金井沢碑と共に高崎市にあるとのことです。個人的には圧倒的にこちらの田胡碑が一番の好みとなります。碑の上部にある笠石がなんとも言えぬ存在感を放っているからです。田胡碑は711年に片岡郡、緑野郡、甘良郡の3郡を合わせ田胡郡を置く際に記念として建郡碑であり、「羊」という人物が当時の政府高官から郡司として抜擢されたそうです。諸説ある中で「羊」という人物は渡来人であったという話もあるそうです。歴史に感じる壮大なロマン。ありがとうございます。
日本最古碑の一つだそうです。8世紀の多胡郡設立が刻まれているそうです。辺りは資料館や古墳もあり散策できます。
古代日本の漢文石碑のうち最古である上野(こうずけ)三碑の1つ。和銅4年(711年)3月9日に多胡郡を設置したことが記されており、毎年その前後の日曜日には収蔵殿を開扉して、実物を直接見ることができるばかりか、その他2つの古碑にも回れるバスが特別に運行され、古碑や古代史好きな人には絶好の機会である。実際、需要が上回ったようで「満員でバスを3台もやりすごして、ようやく来れた」とちょっとおかんむりな方も。この多胡碑だけであれば、上信電鉄吉井駅にレンタサイクルがあり、待つこともなく来れる。この碑の漢字を巡っては、鎖国期にあっても朝鮮通信使経由で拓本が送られては清国の文人に知られ、大きな話題となったよう。六朝期の古雅な書体に似ているとか、初代駐日清国公使の楊守敬も「書法雄古、顔魯公近之」と絶賛である。自分には(そうなの?)といった感じであるが、分かる人には痺れるほどなのであろう。敷地に記念館があり、そこにレプリカであるが見やすいものがある。東アジアを旅行していると、時に王義之の『蘭亭序』をプリントしたシャツを着た人がいて、「永和九年」で始まるそれには確かにその人の美質や風雅な書法愛さえ覚えて感じ入ることがある。しかし、往時の日本の辺境にあって書には六朝、唐の遺風を留め、尚千年以上の風雪に耐えて現前とする碑それ自体は確かに「雄古」でなくて何であろうか?3枚目は記念館に展示のレプリカ。
読み方は「たこひ」でなく「たごひ」です。日本三古碑、上野三碑のひとつで国の重要文化財にも指定されています。考古資料として書跡として、大変な価値があるとされています。日本三古碑にひとつで国宝の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)に比べれば大味で展示状態もいまひとつです。覆屋の中にあるのは致し方なしとして、笠石の落下に備えて敷き詰められた緩衝材が無粋の極みです。対策の必要性は理解できるものの、もう少しやり方があるように思います。ただ、そういった難点を差し引いても見ごたえは十分です。多胡碑は多胡郡の建郡を記念して七一一年に建てられたもので、碑文の内容が中央政府の記録が一致している点から、この頃には朝廷の支配が東国にも浸透していたとうかがい知れます。公共交通機関でのアクセスがろくなものではない那須国造碑に対して、多胡碑をふくむ上野三碑は四五分間隔でバス(ジャンボタクシー)が運行されていて格段に便利です。なお、吉井いしぶみの里公園でひときわ目を引く建物は多胡碑記念館で、ここは上野三碑に関する予習にはもってこいなものの、展示されているのは多胡碑をふくめてレプリカのみで、本物は公園のすみっこにあります。記念館ばかり見ていると「仁和寺にある法師」みたいなことになるのでご注意ください。
元日で閉まっていましたが、別の機会に再度訪問したいです。
重要文化財があるとは思えない程人影もなく静かです。
山上碑、金沢碑は山にあるのに比べ多胡碑は住宅があるひらけた公園のような場所にあります。多胡碑のある建物の回りの大木と石仏も素晴らしいです。ボランティアの方の説明もわかり易かったです。
2022年1月5日に吉井駅前発の上野三碑めぐりバス(無料)を利用して見学しました。書道史上の日本三古碑(多賀城碑、那須国造碑)の一つです。和銅4年711年3月9日甲寅(きのえとら)に多胡郡新設の行政命令が出された記念碑です。続日本紀の和銅4年3月辛亥(しんがい)6日の条に上野国の甘楽郡(からのこおり)、緑野郡(みどのこおり)、片岡郡から六郷を割いて、別に多胡郡を置くと記されています。当時の一郷は、50戸と考えられていますので、300戸と一致します。議事録的に、この宣旨を書いた人物が、左中弁正五位下の官位であった多治比真人(たじひのまひと=三宅麻呂)と碑文にあります。その後の行文には、この行政地区分の変更を指示した高官の名前が列挙されています。太政官の二品(にほん)穂積親王(ほづみのみこ)、左大臣の正二位石上尊(いそのかみのみこと=石上麻呂)、右大臣の正二位藤原尊(=不比等)の以上3名です。碑文に「羊」という字が出てきます。地元の羊太夫伝説で知られるように、羊という人物を郡司として起用したとする解釈が一般的です。その他に方位や別の漢字の略字という説もあるそうです。個人的には、羊の字義として、分散していたものが集まるという意味に解して、三つの郡から六郷を集めて(あつめあわせたまいて)多胡郡に成したと読み取っています。笠石が乗っている形は、那須国造碑と同じです。
名前 |
多胡碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
027-387-4928 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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日本三古碑の一つ。栃木の那須国造碑と宮城の多賀城碑は訪問済みなので、今回残った多胡碑を見に来ました。隣にある資料館(無料)も併せて見ると理解が深まります。